U-Maの音楽館

記事3



悲劇の名牝<テスコガビー>

 名牝というと、どの馬を思い浮かべるでしょうか。遠い昔の変則三冠馬・クリフジか、それとも牝馬三冠のメジロラモーヌか、あるいはシーザリオ。近いところではウオッカとかブエナビスタも。でも、古くからのファンはこの馬の名を挙げる方も多いのでは? 青毛の二冠馬・テスコガビー。

 昭和50年の桜花賞。「後ろからは何にも来ない! 後ろからは何にも来ない!」という関西テレビの杉本アナの名実況が語り草となっているこのレース、半マイル46秒2で逃げた彼女は後半も12秒台のラップを刻み、圧巻はラスト1ハロン11"4というラップタイム。勝ちタイムは1'34"9で当時の桜花賞レコード、と言うより当時、牝馬としては破格のタイム。かなりのペースで他馬を引き離して逃げた馬に、ラストでこのラップを刻まれたら、後ろから何かが来られるわけがありません。それもそのはず。この馬、スピードの違いで逃げた形になっていただけ。その気になれば差す競馬でも何でも自在に出来ると菅原騎手が語っていたように、彼もテスコガビーも、逃げているつもりは全くなかった。だからこそ末脚を伸ばすことも出来たのでしょう。この時の2着との着差は「大差」(注:大差とは10馬身以上の差を指します)。桜花賞史上、大差勝ちした馬はテスコガビー以外にはいないのです。しかし、この馬の血を受け継ぐ者は誰もいません。歴史的な名牝でありながら、これほど悲しい末路をたどった馬は他にいないでしょう。

 テスコガビーは昭和47年、北海道静内の小さな牧場で生まれました。父は快速馬・テスコボーイ、母はキタノリュウという血統。後に名種牡馬となる父も、この頃はまだ初年度産駒がデビューして間もない時期で、海のものとも山のものともつかぬ存在。母は1勝馬で、その父は気難しいことで有名なモンタヴァル。期待はあったのでしょうが、これほどの名馬になるとはこの時点で誰が予想していたでしょう。ちなみに彼女の名前のテスコは父の名前から、ガビーは馬主の近所に住んでいた外国人の女の子の愛称だったらしいです。

 テスコガビーのデビューは昭和49年9月の東京。芝1200m(注:現在東京競馬では芝1200mのレースは施行されていません)の新馬戦。ずっと彼女の手綱を取ることになる菅原泰夫騎手を背に、圧倒的なスピードを披露し、7馬身差の圧勝でした。2週後の3歳ステークス(東京芝1400m)も1番人気で勝利。10月の京成杯3歳ステークス(中山芝1200m)では2番人気でしたが、稍重の芝でレコードタイムを叩き出し、6馬身差の圧勝。3歳時は3戦3勝で、最優秀3歳牝馬の栄冠を手にしたとともに、この時すでに、来年の牝馬クラシックはこの馬で決まりという雰囲気になったのでした。

 翌年・昭和50年の初戦は京成杯(東京芝1600m)。着差はアタマ差ながら、危なげなく勝利。これで4連勝。そして次の一戦は、ファン待望の一戦・東京4歳ステークス(芝1800m)。現在の共同通信杯に相当するこのレースが何故ファン待望かというと、牝馬クラシックはテスコガビーで決まり、牡馬クラシックはカブラヤオーで決まり。ファンの興味はもはや、クラシックの勝ち馬ではなく、この2頭のどちらが強いかでした。で、その対決が実現したのがこのレースだったわけです。しかし、テスコガビーの菅原泰夫騎手は、苦渋の選択に迫られました。何故って、相手のカブラヤオーの主戦騎手もまた、菅原泰夫騎手だったのです。結局カブラヤオーには弟弟子の菅野澄男騎手が乗り、菅原泰夫騎手はテスコガビーに騎乗。カブラヤオーとテスコガビーはともに逃げ馬ですが、このレースはカブラヤオーが逃げて、テスコガビーは終始少し後方を追走。ちなみに他の馬は蚊帳の外。最後の直線で差す形になったテスコガビーですが、結局最後はカブラヤオーがクビだけ先着し、テスコガビーは2着。結果としてはほぼ互角で、テスコガビーが牡馬最強と同等に戦えることを証明したレースとなりました。が、このレース、まともにやり合ったらおそらく、テスコガビーが勝っていたでしょう。何度やってもおそらく、テスコガビーの勝ちだったと私は思っています。何故なら、、、

 かつてカブラヤオーの記事でも書きましたが、カブラヤオーは稀代のクセ馬で、他の馬を極端に怖がった。それを知っていたのは菅原泰夫騎手だけだったのですが、この時後先考えずにカブラヤオーを潰しに行っていれば、カブラヤオーにはほとんど勝ち目はなかったと思うのです。ただ、そのクセを知られてしまったら、クラシックで潰される。菅原泰夫騎手がテスコガビーを選んだのも、実はカブラヤオーを他の馬から守るため、後続をブロックするという役割を課し、そのように乗ったとされています。それでいてテスコガビーの力も十分に発揮させるという難しい騎乗だったことでしょう。ちなみに彼は後年、「カブラヤオーも強かったがテスコガビーはもっと強かった」と語っています。

 そんなわけで牡馬に花を持たせたテスコガビーでしたが、牝馬クラシック路線に戻れば敵無し。次の阪神4歳牝馬特別(芝1200m)、初の関西遠征をレコードで快勝し、いよいよクラシック第1弾の桜花賞。この年の桜花賞は、やる前からちょっと異常でした。今でこそ関西優勢がずっと続いていますが、当時は関東優勢。桜花賞ともなれば関東馬が大挙して押しかけ、迎え撃つ関西馬と火花を散らすのですが、この年は極端に関東馬の参戦が少ない。それもそのはず。テスコガビーの強さを嫌と言うほど見せつけられていた関東勢は、いくら桜花賞といえど、負けるためにわざわざ輸送することもない・・・と、軒並み回避してしまったからなのです。これほど強い馬が参戦したのですから、単勝は1.1倍という圧倒的人気。レースはスタートで気合いを付けたテスコガビーが、あとは馬なりで逃げます。他の馬は出ムチを入れてテスコガビーを追いますが追いつかない、それどころか離されていく。目一杯追っている相手を馬なりで置いていくなんて、圧倒的なスピードの違い。あとは最初に書いたとおりの圧勝劇。もはや強いという次元の話ではありませんでした。ちなみにその翌週、菅原泰夫騎手はカブラヤオーで皐月賞を制します。

 ところが、そんな次元の違う強さを誇ったテスコガビーに、思わぬ異変が。続く4歳牝馬特別(東京芝1800m)でトウホーパール、カバリダナーの後塵を拝し、3着に敗れてしまったのです。世間では大変な出来事で、まさかの敗退に距離不安が囁かれたりもしました。でも、どうやらこれは、厩舎関係者からすれば予期した結果のようで、馬の状態があまり良くなかったみたいなのです。このレースも回避する予定だったのが、馬主の意向で使うことになったようで、もしかしたらこれも、後の悲劇の伏線だったのかもしれません。

 体勢を立て直して臨んだ優駿牝馬(オークス)ですが、彼女は1番人気でも、桜花賞のような絶対的人気ではなかったようです。前走の負け方が距離の壁なら、さらに600mも延びるオークスは無理なのでは?という憶測が流れても不思議ではありません。レースはテスコガビーがいつも通り逃げていきますが、ペースはあまり上がらず、他の馬も十分に追走できるペース。そのうち他馬に追いつかれ、4コーナーで馬群に沈む???そんなシーンがあっていいのか???が、やはりテスコガビーは強かった。スパートをかけると他の馬をあっという間に突き放していく。直線ではもう誰も追いつけず、終わってみれば8馬身差の圧勝劇。この乗り方は距離を意識してのものなのでしょうが、どんな展開でもいけるという菅原泰夫騎手の言葉をまさに証明しているようなもので、彼女自身は差す競馬をしていたのでしょうね。で、その菅原泰夫騎手はというと、その翌週、カブラヤオーで東京優駿(日本ダービー)を制し、春のクラシック完全制覇という大偉業を達成したのでした。

 そのオークスから4ヶ月後、テスコガビーは右球節挫創という重傷を負いますが、経過は順調で、ビクトリアカップを目指して調教に励みます。しかし、レースを目前に控えたある日、調教中に今度は右後肢捻挫を発症し、さらなる休養を余儀なくされてしまいます。ただ、オークスまでの実績から、当然の如くこの年の最優秀4歳牝馬を手中にしました。

 結局復帰戦となったのは翌年(昭和51年)5月2日の平場のオープン戦(東京ダート1200m)。もちろん1番人気に推されたのですが、完全に復調していなかったのか、ブランクが大きすぎたのか、あるいはダートがダメだったのか、ともかく1.8秒も離された6着に沈んでしまいました。そしてさらに、5月20日には、今度は右のトモに不安が発生したため、引退して治療に専念し、来春からの繁殖入りということになっていたのです。ここで終わっていれば、テスコボーイ×モンタヴァルという優秀な血が、後世に伝わっていたことでしょう。しかし、そうはならなかった。

 後に馬主の強い要望により、現役復帰することになったテスコガビー。復帰に向けた運動を始めて間もなく、昭和52年1月19日の朝、放牧先の牧場で調教中に心臓麻痺を発症し、そのまま永久の眠りについたのでした。すでに繁殖牝馬として体を作っていた彼女は、現役復帰するために科せられた調教には耐えられなかったのでしょう。彼女を哀れんだ牧場関係者により、遺骨が牧場の片隅に埋葬され、ささやかな墓標が立てられたと聞きますが、これほどの名馬のお墓としては寂しいもの。何故なら、馬主には彼女の墓を立てる余裕など無かったのです。

 そもそも彼女の現役復帰を望んだ背景には、馬主の事業が立ち行かなくなったことがあったのです。つまり、テスコガビーという打ち出の小槌を振るおうとしたのです。で、その結果がこれでした。彼女の死の数日後、その事業にも終わりの時が来たようです。

 競馬関係者もファンも皆、テスコガビーの死にショックを受け、あるいはやり場のない怒りのような感情を馬主に向ける声もあった。だけど、瀬戸際に追いつめられてもう一度テスコガビーに望みを託す気持ちも、全く分からないではない。彼女がもう勝てなくなって引退した馬なら、誰も復帰させようとは思わない。あまりに強すぎたからこそ、つい期待してしまったのでしょう。あるいは彼女の一連の故障は、馬主の事情を知っていた調教師が、無理使いを避けるための方便として使っていたのかもしれません。とにもかくにも、テスコガビーは逝ってしまった。漆黒の最強牝馬。その伝説を語り継ぐことが、私たちに出来る供養なのでしょう。

(文中の年齢は当時の表記によります)





走る労働者<John Henry>

 2007年10月8日、ある偉大な馬が天に召されました。享年32歳。夏の暑さで体調を崩し、何度か脱水症状を起こしたようで、懸命の治療が施されましたが、最後には肝機能障害を起こし、やむなく安楽死の処置がとられました。でも、32歳なら天寿を全うしたと言ってよいでしょう。その馬の名はジョンヘンリー。古くからのファンはご存じでしょうが、日本ではあまり良いイメージではないかもしれませんね。そう、第2回ジャパンカップに鳴り物入りで参戦し、1番人気に推されながら、何もせず13着に敗れ去ったあの馬です。私は当時、まだ馬券を買えない身でしたが、子供の頃から競馬には興味があり、アメリカから凄い馬がやって来るってことで、どんなに凄いのか、わくわくしてテレビを見ていたような記憶がありますが、見事裏切られちゃいました。関係者がやる気無かったのか、馬自体の適性の問題か、あるいは調子が悪かったのか、それとも関係者が辺境の地で行われるレースをなめていたのか(実際当時は訳の分からないレースでしたし)。ともかく残念な結果だったのですが、それが彼の評価を落とすものではありません。だって、それ以上にハイレベルなレースを幾つも勝っているのですから。

 ジョンヘンリーは1975年3月生まれ。父はプリンスキロ系のOle Bob Bowers、母はOnce Double(母父DoubleJay)。血統的にも大したことないし、生まれながらに脚が曲がっていたせいもあり、1歳時、わずか1100ドルという安値で引き取られました。しかも、著しく気性が悪かったため、早々と騙馬にされてしまった(去勢された)のです。ちょっと口の悪い言い方をすれば、駄馬の典型みたいな馬で、こいつが後に国民的アイドルになろうとは、誰が予想していたでしょう。

 騙馬と言えば、ケルソ、フォアゴー、エクスターミネーターという偉大な3頭(アメリカ三大騙馬と讃えられる)が有名ですが、日本ではレガシーワールドとかマーベラスクラウンあたりが挙がるくらいかな? そもそも日本では牡馬クラシックの出走権は無いし、天皇賞にも出られない(これらの競走は出走条件が「牡・牝」なので、騙馬は出走できない。それはこれらの競走が優秀な種牡馬の選定という意味合いがあるからである)。騙馬が活躍できる場が少ないというのも、騙馬が嫌われる要因なのかもしれません。けど、外国では騙馬が結構活躍したりしますね。いや待て。そんなに活躍する馬を去勢してしまうなんて勿体ない。血を残してこそなんぼだろう・・・という意見も出そうですが、どこの世界にディープインパクトを去勢しようなんて奴がいるでしょう。既にG1級の活躍している馬を去勢するなどあり得ません。気性が著しく悪く、競走で良い成績が残せない(と予見される)からこそ去勢するのです。つまり彼らは、去勢されたからこそ活躍できたと見るべきなのです。

 さて、1977年5月、2歳未勝利戦でデビューした彼は、見事勝利し、幸先の良いスタートを切りました。その後一般競走やハンデキャップ競走、G外のレースを使われ続け、2歳時は11戦3勝(2着2回)と、下級のダート戦でそこそこ走りましたが、2歳ですでに11戦とは、日本の中央競馬では考えられない使われ方です。賞金は約5万ドル獲得しました。

 翌1978年、3歳時は最初振るいませんでしたが、5〜6月に3連勝。芝を中心に使うようになってから、成績が安定してきました。その後もよく走り、9月にはラウンドテーブルハンデキャップ(G3)を勝利します。その後、10月末のチョコレートタウンハンデキャップ(G外)で勝つと、ようやく休養に入ります。3歳時の成績は19戦6勝(2着2回)。都合30戦休み無しで使われたことになりますが、タフに走り続けました。その年はアファームドが米三冠制覇を達成し、脚光を浴びる影で、ジョンヘンリーは注目を浴びることもなく、慎ましく(?)走っていました。あまり期待されていなかったためか、彼は生涯にオーナーが3回替わり、調教師も4回替わってます。これもこの馬らしい珍記録と言っていいでしょう。これほどの名馬でこれだけトレードされるのは珍しいのでは? この年の賞金、約12万ドル。

 1979年、4歳時も相変わらず。5月に復帰し、11戦4勝(2着5回)。G2競走の2着がありましたが、使われたのは主に一般競走やG外の競走。「脚光」とはほど遠い世界でした。この年の賞金、約13万ドル。しかし・・・

 1980年、5歳になった彼は、突如快進撃を始めたのです。手始めにサンガブリエルハンデキャップとサンマルコスハンデキャップ(ともにG3)を軽く連勝し、G2のハイアリアターフCも快勝。そして、初のG1挑戦となったサンルイレイSも勢いに乗って勝っちゃいました。しかも、それで終わらず、サンファンカピストラーノハンデキャップ、ハリウッド招待ハンデキャップ(ともにG1)も勝ち、何と!G1を3連勝。秋にもジョッキークラブ金杯、ターフクラシックS、オークツリー招待ハンデキャップと、またもG1を3連勝。この年はG1・6勝を含む12戦8勝(2着3回)。約92万ドルを獲得し、エクリプス賞芝牡馬チャンピオンに輝いたのです。一体どうしちゃったんでしょう? いえいえ、これこそ彼の実力。プリンスキロ系の奥手の血が、ようやく開花したのでしょう。

 1981年(6歳)も現役を続行。G2のサンルイオビスポハンデキャップを快勝した後、サンタアニタハンデキャップ、サンルイレイS、ハリウッド招待ハンデキャップ(いずれもG1)を3つ制覇。ハリウッド金杯は3着に敗れますが、G3,G外を連勝した後、ジョッキークラブ金杯とオークツリー招待ハンデキャップ(ともにG1)をともに連覇。最終戦のG外こそ4着に敗れましたが、10戦8勝で約180万ドルを獲得。堂々エクリプス賞年度代表馬、古牡馬チャンピオン、芝牡馬チャンピオンに輝いたのでした。

 ここまで大活躍すれば、後は悠々自適の種牡馬生活・・・と、牡馬ならそうなるのですが、残念ながら彼は騙馬。もうすでに生殖能力はないのですから、ひたすら現役として走り続けなければなりません。ってなわけで、1982年(7歳)も現役続行です。が・・・。サンタアニタハンデキャップ(G1)の連覇を達成したものの、続くサンルイレイSの3連覇はならず(3着)、しかも10月まで休養を余儀なくされます。復帰2戦目でオークツリー招待ハンデキャップ(G1)を3連覇。さらにG2を1回使い、いよいよ日本初見参。ジャパンカップに参戦です。これだけの馬で、しかも騎手は名手・W.シューメーカー。当然の如く1番人気・・・ですが・・・何もせずに13着敗退。色々言われましたが、10月半ばに復帰し、10月末、11月半ばと都合3回使った後で、11月末のJC。いくら何でもローテーションがきつすぎやしませんか? おそらく敗因はそんなところにあるのでしょう。結局その年は順調に使えなかったこともあり、6戦2勝。2勝はともにG1で、賞金も58万ドル余り稼いでますが、さすがにもう衰えたか・・・。

 翌1983年(8歳)、ようやく7月のG2で復帰し、勝利するものの、バドワイザーミリオン(G1)2着、ジョッキークラブ金杯(G1)5着、オークツリー招待ハンデキャップ(G1)2着と今一歩。最終戦のハリウッドターフC(G1)は勝ちましたが、5戦2勝(2着2回)。賞金も65万ドルほど稼ぎ、エクリプス賞芝牡馬チャンピオンも手にしましたが、やはり衰えは隠せない模様・・・と、思いきや、この馬はやはりただ者ではなかった。

 1984年(9歳)も現役を続行した彼は、サンタアニタハンデキャップ、サンルイレイS(ともにG1)に勝ちきれず、もう限界かと、誰もが思ったでしょう。しかし、ゴールデンゲートハンデキャップ(G3)に勝つと息を吹き返し、ハリウッド招待ハンデキャップ(G1)を快勝。続くハリウッド金杯(G1)では2着に甘んじますが、サンセットハンデキャップ、バドワイザーミリオン、ターフクラシックS(いずれもG1)を3連勝。この年でこの成績は、まさに驚異的としか言いようがありません。最後はバランタインズハンデキャップ(G外)を勝って、長かった競走馬生活にピリオドを打ちましたが、9歳にして9戦6勝(2着1回)、賞金233万ドルも稼ぎだし、なな何と! エクリプス賞年度代表馬、芝牡馬チャンピオンをも獲得したのでした。何という馬でしょう!

 騙馬の宿命としてひたすら走り続け、勝っても負けても一所懸命に走る姿は人々の共感を呼び、アメリカ国民から愛されました。走る労働者という愛称は、まさに彼にピッタリだったでしょう。通算成績は83戦39勝(内G1・16勝!)、賞金総額はおよそ660万ドル。これは当時の世界賞金王です。思い出してください。この馬の元値はたったの1100ドルです。最初は全く期待されていなかった馬が、ここまで走るとは! それが競馬の醍醐味でもありますね。引退後は牧場で悠々自適に暮らし、1990年には殿堂入りも果たしましたが、冒頭に書いたとおり、2007年10月8日、多くの関係者に見守られながら、息を引き取りました。こんなすごい馬、なかなか出るものではありません。






泥馬場なら誰にも負けない<レインボーアンバー>

 レインボーアンバーは昭和63年、福島の3歳未勝利(芝1000m)でデビューし、2着。連闘で臨んだ3歳新馬(芝1000m)も2着。そして3戦目、東京の3歳未勝利(ダ1400m)で2着に3馬身差を付けて初勝利。芝の短距離2戦では、距離が短すぎたのか、2着続きでしたが、ダートで結果を出したという3歳時でした。

 年明けて中山の若竹賞(芝2000m)に出走しましたが、4着。しかし、続く東京の4歳400万下(ダ1600m)で、2着に大差を付けての圧勝。ここでもダートで結果を出したことになります。オープンに上がった彼は、年明け3戦目で共同通信杯4歳ステークス(トキノミノル記念)(芝1800m)に挑戦し、マイネルブレーブの2着と頑張り、報知杯弥生賞(芝2000m)に駒を進めます。このレースこそこの記事の本題。そこまで6戦2勝、しかも2勝はいずれもダート戦でしたが、前走重賞2着が評価されてか、当日は2番人気でした。で、報知杯弥生賞の結果はと言うと、レインボーアンバーが2'07"7という破格のタイムでブッチギリの大勝利でした。ちょっと待て! 芝の2000mだったら未勝利戦でも2'02"くらいは出るだろう! なんでこれが破格のタイムなの?・・・ごもっともです。タネを明かすと、この年は暖冬で、関東では週末の度に雪が降り、中山競馬場の芝コースは大荒れ。そして当日もボコボコになった芝コースのあちこちに水が浮き、芝とダートの区別も付かないくらい、いや、ダートの方がまだましというほど無茶苦茶な荒れ様。解説の大川慶次郎氏(故人)が「この馬場では2'10"なら上出来でしょう」と仰っていたほど酷い馬場でした。でもレインボーアンバーは、他の馬がぬかるみに脚を取られて四苦八苦しているのを尻目に、ただ1頭スイスイと走り、2着に1.7秒もの差を付けての大楽勝。2着はそこまで10戦2勝2着8回という超堅実馬・ワンダーナルビー(抽選馬)でした。このレースでは第4コーナーで勝負を賭けた一頭の馬がコーナーを曲がりきれず、外ラチ(コース外側の柵)まで膨れてしまうほど酷い馬場だったのですが、レインボーアンバーにはそんなの全く関係なかったのでした。

 レインボーアンバーは何故、そんなに道悪に強いのか? 道悪の巧拙には、様々な要因が関係しているようですが、まずは血統。レインボーアンバーはその名から連想できるように、アンバーシャダイの仔です。で、それまでの2勝はいずれもダート。アンバーシャダイ産駒が全て道悪巧者とは言えないのですが、アンバーシャダイ産駒でダート巧者という条件が付くと、芝の道悪は鬼のように強いのが多いんです。お次は爪の形と走り方。爪の底面が広い馬は、道悪だと滑りやすいと言われますが、はたして本当か? それにはちょいと疑問が残るところ。しかし、大跳びの馬(歩幅が大きい馬)が道悪苦手というのは、確かにそういう傾向があると思われます。大跳びの馬はスピードに乗ったときの破壊力が身上ですから、道悪だとその武器を削がれてしまうということでしょう。ジリっぽい馬が道悪得意ってのも確かに有りです。っていうか、元々切れが無い分、相対的に有利という事でしょう。しかし・・・これらは全て、要因の一つに過ぎないでしょう。本当の要因は馬の性格にあるのだと、私は思っています。レインボーアンバーが、2'07"7という破格のタイムで・・・と書きましたが、彼だって良馬場なら、2分そこそこのタイムで走れたはず。道悪巧者とは言っても、道悪の方が走りやすい(=タイムが出る)馬なんて居やしない。みんな走りにくいに決まっている。そんな中でも諦めず、めげずに走るだけの我慢強さを持った馬。それこそが道悪巧者となる最大の要因だと思うのですがいかがでしょう。逆に道悪で負けたのを切っ掛けに長いスランプに陥る馬がたまにいますが、それも精神的なダメージによるところが大きいのでしょう。レインボーアンバー君は、きっと根性の座った奴だったのではないかと思いますが、それにしてもこの馬の道悪巧者ぶりは桁違いで、史上1・2を争うほどの道悪巧者と言っても過言ではないでしょう。あっ、これまでのは芝での話ね。ダートは乾いている方が抵抗が大きいので、稍重くらいが走りやすい。重・不良になると、抵抗はなく走りやすいのですが、馬込みに入った馬は泥を被り、走る気を無くしたりもします。時折ドロドロのダートで最内から泥だらけになって突っ込んでくる馬がいますが、よほどえげつないええ根性しとるんやろな。

 さて、レインボーアンバーの話に戻りますが、彼がもし皐月賞に出走していたら、多分楽勝していたでしょう。私はもう、弥生賞圧勝の時点で、皐月賞はこの馬って決めていました。だって、弥生賞から皐月賞まではずっと中山開催ですから、その間に芝の状態が良化することはないもの。案の定その年の皐月賞も酷い馬場状態でした。でも、故障でリタイアしたレインボーアンバーは、せっかくの天の恵みを享受できませんでした。

 幸い故障の程度は軽く、秋になって京都新聞杯で復帰した彼は、バンブービギンの5着。まぁ、鉄砲駆けしない血統なのでこんなものかな。そして次走はGI初挑戦となった菊花賞。4番人気でしたが、道悪でもないのにバンブービギンの2着に突っ込み、決して道悪だけの馬ではないことをアピールしました。故障がちの馬でしたから結局これを最後に引退してしまいましたが、無事であれば長距離GIを勝てる馬に成長したかも知れません。何しろ父のアンバーシャダイは7歳で絶頂期を迎えたほど晩成の馬でしたから。まぁ、レインボーアンバーの世代は史上稀に見るほど層の薄い世代なので半信半疑ですけど。

(文中の年齢は当時の表記によります)









最後の師弟関係<北橋師・瀬戸口師と福永祐一>

 ここで”現役”の記事を取り上げるのは珍しいことですが、今回は”現役”の福永祐一騎手のお話。

 このホームページは一応音楽がメインのはずなのですが、掲示板に馬の話題が多く上がるのはご存じでしょう。その中で福永祐一騎手の話題になることもありますが、私はいつも”祐一クン”と呼んでいます。応援しているからなのですが、何故応援するかというと、最近には珍しい律儀な奴だから。そのことは、フリー宣言する実力がありながら、2006年に北橋修二調教師が引退するまで、ずっと北橋厩舎所属だったことからも伺えます。厩舎所属の騎手には固定給が支払われ、生活がある程度保障されますが、一方では(有力馬から騎乗依頼が来ても)所属厩舎の馬に優先して騎乗しなければならない場合もありますし、厩舎スタッフの一員として、馬の世話や厩舎の作業などもこなさなければなりません。だからこそ、リーディング上位に名を連ねる騎手は、早々とフリー宣言することが多いのです。しかし、祐一クンはそうしなかった。

 北橋師は祐一クンのことを常々”下手くそ”と言っていたように、事あるごとに彼を叱咤し、非常に厳しく育てたそうです。「上手くなったら他厩舎の良い馬に乗れ」という方針らしく、デビュー当時のまだ未熟だった祐一クンには自厩舎の良い馬を回したのですが、そのために馬主に頭を下げてくれたことも度々だったそうです。決して人前では弟子を褒めたりしない。でも、裏ではその”下手くそ”のために頭を下げるなど、誰よりも温かく見守ってくれたのです。しかし、北橋師と祐一クンの関係は、実はこれだけではありません。このページを読まれる方はご存じのように、祐一クンの父君・福永洋一氏(元騎手)は、天才騎手の名を恣にしながら、不幸な落馬事故で重傷を負いました。今では祐一クンの活躍に拍手するなど、ずいぶん回復したそうですが、事故当時まだ2歳の幼子だった祐一クンは、寂しい思いもしたことでしょう。そんな祐一クンを、実の子のように可愛がってくれたのが、他でもない”北橋のおじちゃん”だったのです。だからこそ祐一クンが騎手免許を取得した際に、北橋師の門を叩いたのは当然の成り行きなのですが、優しいおじちゃんは一転して、厳しい師匠に変貌しました。でも、それもこれも自分を思ってくれてのこと。だからこそ彼は師を尊敬し、引退するまでずっと側に仕え、厳しく鍛えてもらったのでしょう。それを象徴的に表しているのが、エイシンプレストンで朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティステークス:馬齢表記は2歳に)を制した時の、「北橋先生の馬で勝てたことが何より嬉しい」というコメントです。意外にも北橋師にとって、これがG1初制覇であり、国内に限れば唯一のG1制覇。それ故祐一クンは、先生にG1勝ちをプレゼントできたという思いだったのでしょうし、北橋師にとっても、弟子から最高のプレゼントをもらったという気持ちだったのでしょう。祐一クンはそれ以前から注目していた騎手でしたが、応援しようって気になったのはこのコメントが切っ掛けでした。北橋師は引退する際に、「これまで仲のいいセトさん(瀬戸口勉調教師のこと)と2人で一緒にやってきて、セトさんは昨年日本一(2005年最多勝利調教師)、ワシも500勝(通算)ができた。祐一も何とか独り立ちしつつあるから、それも良かった」とコメントしていますが、何とか独り立ち・・とは相変わらずですね。祐一クンに対しては、「これからは陰で見て、何かあったら個人的に話すつもり」と、これからも競馬界最後の師弟関係(※)は終わることはないでしょう。

※時代とともに変わりゆく競馬社会の中で「この2人が最後の師弟関係になるのでは」という関係者は多いみたいです。

 さて、その祐一クンがもう一人師と仰ぐ人が、セトさんこと瀬戸口勉調教師。瀬戸口師は北橋師と同郷で、年も近いことから二人は大の親友。調教師としても共に歩んできたそうです。そんな関係ですから祐一クンは瀬戸口厩舎の馬に乗ることも多く、瀬戸口師の管理馬で毎年コンスタントに20〜30勝を上げていたのです。瀬戸口師も祐一クンを育ててくれた、大恩のある師匠ですし、彼も師を尊敬しています。瀬戸口師といえばまず名が上がるのがオグリキャップですが、2000年以前のG1勝ち馬はオグリキャップ、オグリローマン、ゴッドスピード(大障害)の3頭で、2000年以降にエイシンチャンプ、ネオユニヴァース、サニングデール、ラインクラフト、メイショウサムソン、マルカラスカル(大障害)と、立て続けに大レースの勝ち馬を輩出しております。つまり、引退となった頃が実は一番充実していた時期で、それ故定年制による引退が惜しまれます。2000年以降の大レース勝ち馬のうち、エイシンチャンプ、サニングデール、ラインクラフトの3頭は、祐一クンが乗って勝っていますし、ネオユニヴァースも、最初は祐一クンが主戦騎手でした(クラシックで同期のエイシンチャンプと騎乗が重なり、先に依頼のあったエイシンチャンプを選んだという経緯がある)。メイショウサムソンには乗っていませんが、祐一クンはサムソンよりも期待されていたマルカシェンク(二度の骨折もあり、伸び悩んだ)に乗っていたのですから、師と祐一クンの関係の深さは明らかですね。

 その瀬戸口師も2007/2/25のレースを最後に引退。祐一クンはマルカシェンクに乗って中山記念(G2)に出走しましたが、7着に敗退。恩師に最後の重賞勝ちをプレゼントすることは、残念ながら出来ませんでした。

こらー!祐一!買ってたのに!

って、冗談冗談。スタートも良かったし、4角絶好の位置。直線伸びるか・・・と一瞬思わせたものの、結局押せど叩けど伸びずに7着。連戦の疲れが溜まっていたのかな? レース後にコメントしていたように、少し休ませて立て直しを図った方が良いような気がします。

 さて、祐一クンは北橋師に続き、瀬戸口師まで引退し、後ろ盾を失ったわけですが、いまではまあ、勝ち鞍だけで言えばトップクラスの騎手になっています。でもなんか、騎乗ぶりを見ていると相変わらず体の捌きが固い感じがするなぁ。







ちょっとコラム<日本一外有利なコースは?>

 とりあえず中央競馬に限った話ですが、日本で競馬が行われるコースは、基本的に楕円形のようなコースになっています。中には阪神のようにおむすび型のコースもありますが、どれもこれもぐるっと一周できるような形態です。英国のニューマーケット競馬場とか、ダービーが行われるエプソム競馬場などは周回型ではなく、独特の形状をしているし、フランスのロンシャン競馬場などもかなり特徴的な形態をしているのに対し、日本のはどいつもこいつも似たような感じ。ヨーロッパには直線1マイルなんてコースもありますが、日本で直線コースは新潟の直線1000mのみです。アメリカは日本と同じ楕円形のようなコースですが、日本と違って芝コースが内側にあり、ダートコースが外になっています。芝競馬中心の日本と、ダート競馬中心のアメリカの違いですね。

 日本の競馬場はどれも似たような・・・などと書きましたが、実際にはそれぞれ特徴があります。一周の長さやコースの広さも違うし、坂の有無、右回りか左回りかの違いもあり、馬にもどこのコースが得意ってのがあります。先週(2006年7月2日)の函館スプリントステークスでは、格下で、13頭立てのどん尻人気だったビーナスラインという馬が、同レース三連覇のかかったシーイズトウショウを並ぶ間もなく差し切ってしまいました。2kgの斤量差もありましたが、実は彼女、それまでに函館で4回走って3勝・3着1回という函館巧者。時折このように、ある特定の競馬場と抜群に相性の良い馬が出てきます。そういう馬は格上げ挑戦でも思わぬ好走をしたりするし、不振続きだったのが相性の良い競馬場で激走し、大番狂わせを演じることもあります。馬券検討で迷ったら、コース巧者に注目してみるのもよいかも。

 得手不得手は予想する側にもあって、私はかつての新潟競馬場が好きでした。今は左回りですが当時は右回り。外回りは直線が427mあって、東京の次に直線の長いコースでした。私が買っていたのは芝の外回りを使うレースが主でした。「何とかスタリオン」というゲームでは、直線が長いから追い込みも利く・・・という設定になっていたようですが、ところがどっこい。追い込みが利くのには、ある条件をクリアしなければならないのです。ある条件というのは、小柄で器用な馬。牝馬なんかもってこいでしたねぇ。大柄な馬、不器用な馬は何故ダメかというと、このコースは日本一コーナーのきついコースだったので、そういう馬は勝負所の第4コーナーで外に振られ、直線だけで追い込んでも届かないケースが多かったのです。もちろんそういう馬が人気になっていれば大事なお客様。けっこう美味しい馬券をゲットしていたような記憶があります(ただし、その貯金を他の競馬場で使い果たし・・・)。今は改装されちゃって、私としてはガッカリ。

 ところで、コーナーがあるということは、内と外では走る距離が違う。だから内が有利・・・かというとそうでもない。内は揉まれやすいので、馬込みを嫌う馬は、コースロスがあっても外枠が良いし、芝コースなどは内側ほど荒れやすく、内が荒れれば、馬場の良い外の方が有利になります。ですが、東京のように仮柵で内を保護しておくようなコースでは、仮柵が外された週は内が外よりも良い状態になるので、内が極端に有利になります。内外の馬場状態を把握しておくのも、馬券作戦では重要な要素になります。

 それでも中には外有利というコースもあります。私の見た目では中山の芝1200mは、先行馬は外枠有利。スタート直後に外枠の馬が被さるように先行していくシーンがよく見られます。かつては「中山1200のゲートは曲がっている」などという変な噂もあったようですが、ここはスタート直後に緩いコーナーがあって、外枠発走だと直線的に内に切り込めるし、下り坂(バンクの傾斜)を利してダッシュが付けやすいということらしいです。阪神のダート1400mも、外枠が有利なようですね。ですが、これ以上に、圧倒的に外枠有利なコースがあるのです。それは・・・新潟の直線1000m

 コーナーもないのに何で??? と、疑問に思われるかもしれませんが、新潟の直線1000mのレースでは、スタート直後に全馬、外をめがけて斜めに走るという面白い光景が見られます。その際に外の馬ほど一番外をすんなりと確保できますし、内の馬はかなり斜めに走らされるので、不利になってしまうのです。では何故、大外に馬が殺到するかというと、直線コースとは言っても、ゴールまでの600mは周回コースと同じコースを使うのです。周回コースを使うレースでは馬はなるべく内を通ろうとしますし、追い込む馬もせいぜい馬場の中ほどを走りますから、コースの一番外は通常はどの馬も走らない。故に一番外の馬場状態はいつも完璧。少しでも良い場所を走ろうとする結果、こういう事が起こるのです。

 ならば、必勝法。ルールによって、枠入りを何度も拒否すると、一番外の枠からの発走ということになります。つまり、不利な内枠を引いてしまったら、騎手がわざとゲート入りを拒否するように仕向けて(出来るかどうか知らないですが)、有利な外をゲットする・・・って、枠入不良だけでもペナルティが課せられるのに、わざとだとバレたら相当重いペナルティが課せられるだろうな。






ビッグレッドの名を継ぐ者<Secretariat>

 ヴァージニア州はアメリカ競馬発祥の地。そのヴァージニアで最大規模を誇るメドウ牧場で、1970年、セクレタリアトは生を受けました。大種牡馬ボールドルーラーを父に、名牝サムシングロイヤルを母に持つ彼は、生まれた時から期待されていたのです。

 牧場で順調に調整されたセクレタリアトは、1972年、2歳の4月にローリン調教師の元に預けられ、デビューへ向けてのさらなる調教を積み、その7月、アケダクトでの未勝利戦でデビューしました。期待の大きかった馬なので、当然の如く1番人気に推されましたが、スタートで大きく出遅れ、最後方からの競馬。懸命に追い上げるも、ハーブルに1・1/4馬身の差をつけられた4着に敗退しました。しかし、その11日後の未勝利戦に出走した彼は、今度はまともにスタートし、重戦車のような力強いフットワークで2着に6馬身の差をつけて圧勝しました。その2週間後、アローワンスを馬なりで完勝。この時から主戦騎手のターコットが手綱を取っています。さらにサンフォードステークスを3馬身差で、2歳最初のチャンピオン戦(アメリカは日本と違い、2歳の頃から王座決定戦がいくつも組まれている)であるホープフルステークスを5馬身差で圧勝し、評判通りの力を発揮しました。さらにニューヨークに転戦し、フュチュリティステークスでストップザミュージックに1・3/4馬身差をつけて優勝。初戦は落としたものの、その後は圧勝に次ぐ圧勝で、5連勝を果たしました。

 その1月後、シャンペンステークスに出走しますが、派手に出遅れたため、コーナーで強引に進出せざるを得ず、その時ストップザミュージックに接触してしまい、2馬身差で1位入線したものの、進路妨害で2着に降着となってしまいました。思わぬ敗退です。しかし、ローレルフュチュリティではターコット騎手が大外を走らせ、8馬身差で圧勝。その2週間後、2歳最後のレースとなるガーデンステートステークスでも2着に3馬身半差をつけての快勝でした。そしてこの年、セクレタリアトは史上初の2歳馬による全米年度代表馬に輝いたのです。日本ではどうでしょう? 新馬→新潟2歳S→デイリー杯2歳S→京王杯2歳S→朝日杯FSと、全てレコードでぶっちぎって、なおかつ3歳路線、古馬G1路線の勝ち馬が全部違う・・・くらいの条件が揃わなければ、2歳で年度代表馬ってのはあり得ないでしょう。

 さて、ここで少し余談です。2歳最後のレースであるガーデンステートステークス。開催地はガーデンステート競馬場となってますが、これってニュージャージー州のチェリーヒルという小さな町にあったあのガーデンステート競馬場なのかなぁ? セクレタリアトの記事で、この名前が出てくるとは思いませんでした。チェリーヒルのその競馬場はすでに閉鎖されており、今や跡形もないそうです。閉鎖の理由は? 経営不振か、新たな場所に移転するのか、はたまた、まさにその競馬場で起こった「変異型と考えられる(というより、変異型としか考えられない)クロイツフェルト・ヤコブ病患者の集団発生」の証拠隠滅するためか。私は最後の理由だと思っているのですが、州政府も連邦政府もそれを認めはしないでしょう。

 さて、話を元に戻します。年が明けると、セクレタリアトの周囲は少々慌ただしくなりました。馬主のペニー氏が父の遺産を相続したのですが、その際に膨大な相続税を支払わねばならず、セクレタリアトに総額で608万ドルという破格のシンジケートを組み、株を売り出しました。相当な高額だったにもかかわらず、世界の有力馬産家たちに買われ、たった3日で売り切れとなりました。その中には日本の社台グループ総帥、吉田善哉氏も名を連ねていたそうです。しかしそんな話はどこ吹く風と、セクレタリアトはフロリダでのんびりと休養を取っていたようです。

 3月に3歳初戦のベイショアステークス(G3)に出走し、他馬に接触しながらも4・1/4馬身差で圧勝、ゴダムステークス(G2)では早めに抜け出して3馬身差の圧勝。しかし、その2週間後、ウッドメモリアルステークス(G1)では走りに精彩を欠き、3着に負けてしまいます。大事な一戦の前に少々暗雲が立ちこめました。大事な一戦とは・・・そう、3歳三冠の第一関門・ケンタッキーダービー(G1)です。

 しかし、その暗雲は幻だったのか。ケンタッキーダービーでのセクレタリアトは、バックストレッチから徐々に進出し、直線に入るとムチも入れないのにぐんと加速し、シャムに2馬身半の差をつけ、1'59"4のトラックレコードで楽勝してしまったのです。このレコードは未だ破られておらず、2分を切った馬ですら、2001年のモナーコス(1'59"97)を待たなければならないのです。続く三冠の第二関門・プリークネスステークス(G1)もバックストレッチで仕掛けて一気に先頭に立ち、そのまま押し切ってしまいました。唯一ついて行ったのはシャムだけでしたが、直線で2馬身半差にまで詰めるのがやっとでした。そして三冠の最終関門・ベルモントステークス(G1)は、セクレタリアト伝説を決定づける歴史的なレースとなったのです。

 ダートの2400mという長距離レースであるため、どの馬もスタート後に抑え、セクレタリアトのターコット騎手は最初から行きました。それを見たシャムのピンカイ騎手も競りかけて行き、バックストレッチでは2頭が並んだまま鍔迫り合いを演じ、3番手以降はそこから10馬身も後で蚊帳の外。もうその時点で勝ち馬は2頭のいずれかに絞られたのですが、その内シャムがバテてしまったため、そこからはセクレタリアトの一人旅。直線に入ってもさらに後続を引き離し、2着のトワイスアプリンスに何と31馬身もの大差をつけ、悠々とゴールイン。最後は馬なりでゴールを迎えたのですが、その走破タイムは2'24"0の大レコード。それまでの記録を2'6も更新してしまったのです。このレコードも未だに破られていないどころか、2分25秒台で走る馬すらいないのです。まさに恐ろしいほどの強さを見せつけ、三冠をいずれも大楽勝。同じ栗毛の古の名馬・マンノウォーと同じビッグレッドと呼ばれ、ついにはTIME誌の表紙を飾るなどアメリカの国民的英雄となったのでした、ちゃんちゃん・・・って、まだ終わりではないですね(ごめんなさい)。

 その後はアーリントン招待(G1:セクレタリアトを招待するために新設された)でマイギャラントに9馬身差をつけての楽逃げ切り。次はサラトガで古馬を相手にホイトネイステークス(G2)に出走しますが、その日はとにかくイライラしており、スタート前にゲートを出てしまうなどのアクシデントもあり、結局勝ち馬から1馬身差の2着に敗れてしまいました。マールボロカップ国際ハンデキャップは同馬主で前年の2冠を獲得したリヴァリッジとの初対決を2馬身半差で制しますが、続くウッドワードステークス(G1)ではプルーヴアウトに4馬身半もの大差をつけられ2着に惨敗するといった具合に一進一退でしたが、もはやセクレタリアトは、2着では誰も満足してくれないのでした。

 心機一転・・というわけでもなかったのでしょうが、セクレタリアトは続くマンノウォーステークス(G1)で初の芝コースに挑み、ここは見事、2着に6馬身差をつけ、レコードで圧勝し、芝への適応性も示しました。そして最後のレースとなったカナダ国際選手権(G2)では、主戦のターコット騎手の騎乗停止によりメープル騎手が代役で騎乗しましたが、そんなことお構いなしに、6馬身差で圧勝して、引退に華を添えたのです。そしてさらに、1973年の全米年度代表馬に選出され、見事2年連続の栄冠を獲得したのでした。通算成績は21戦して[16-3-1-1]。アメリカを代表する名馬に相応しい素晴らしい競走成績でした。しかし、その後は・・・

 セクレタリアトはクレイボーン牧場で種牡馬となり、88年の二冠馬・リズンスターを輩出しましたが、多くの産駒はスピードに欠け、さらに現役時代に出遅れ癖があったことからも分かるように、気難しさも天下一品。産駒にはそういう悪いところが強く伝わったようで、種牡馬としては失敗。日本に輸入されてG3を3つ勝ったヒシマサルあたりが代表産駒の一角に挙げられるくらいですから成績は芳しくなく、見事期待を裏切ってくれちゃったのです。そして1989年10月4日、蹄葉炎が進行し、残念ながら安楽死の処分がとられ、20才でこの世を去りました。しかし、産駒の牝馬たちからはストームキャット、ゴーンウエスト、エーピーインディ、デヘアらが出て、母の父としてかなり優秀なところを示しています。どういう訳か、スタミナ型で気性の悪い種牡馬って、母の父として成功する例が多いようです。

 今世紀になってアメリカで行われた20世紀の名馬投票。2代目ビッグレッド・セクレタリアトは、初代ビッグレッド・マンノウォーに次いで、第2位を獲得したのでした。





人馬に初の栄冠をもたらした気合いのムチ<メジロファラオ>

 メジロファラオは1993年生まれ。1995年10月にデビューし、その年は3戦しましたが、全く良いところ無し。翌年も年明けから3戦良いところ無し。7戦目でようやく3着と好走し、8戦目、1996年3月31日の未勝利戦で初勝利をあげました。しかし、500万条件に上がってからはまたまた全く良いところ無し。8戦して2桁着順が5回という体たらく。ところが・・・1997年3月1日の平場戦(中京ダ2300m)で、11番人気ながら2着に突っ込み大穴をあけると、2週間後の同条件の平場戦で、1年ぶりに勝利。この時も8頭立ての5番人気でした。

 中京のレースなので残念ながら見ていません。私の目にとまったのは次走、4月の鹿島特別(中山)に出走してきた時でした。その時も7番人気と、人気はいまいちでしたが、見事2着に粘り込んで、私にお小遣いをくれました。続く陣馬特別は見事勝利して、再びお小遣いをくれました。この時も5番人気でしたから、美味しい馬券でした。味を占めて翌週の緑風S(連闘)でも買いましたが、その時は9着。でも舞台を北海道に移しての松前特別で勝利するなど、この頃は充実していました。その後2戦、函館記念と京都大賞典という重賞に出走しましたが、さすがに歯が立たず惨敗。でも、直後に京都の準オープン・高雄Sで勝ちましたから、平地の成績もまずまずで、長い距離なら侮れない一頭でした。ただ・・・その後5戦は惨敗続きで、上位クラスではもうダメかな・・・って感じでしたが。

 メジロファラオの父・アレミロードは、第6回ジャパンカップで同じ英国のジュピターアイランドと壮絶な叩き合いを演じた馬です(アタマ差及ばず2着)。この死闘はジャパンカップ史に残る名場面の一つでしょう。アレミロードはリボー系らしく、選手権距離(2400mまたは12F)に強い馬でしたが、リボー系の割には早熟でした。日本で種牡馬入りした当初は、ダービーでの好勝負を期待されたのですが、出てくる馬は早熟な短距離馬がほとんどでした。メジロファラオはアレミロード産駒の数少ないステイヤータイプでしたが、それは母の父であるモガミの影響が強かったのかもしれません。ん? 母の父がモガミ??? ってことは・・・そうです。この名前が出たら、もう次の展開はお分かりですよね。

 平地で頭打ちとなったメジロファラオは障害に転向し、1998年5月10日、東京の未勝利戦でデビューしました。父として数多くの障害馬を送ったモガミですが、母の父としてもその影響力は強いようです。13頭立ての2番人気に支持されたファラオは、2番手を進み、直線抜け出して初障害初勝利。続く400万下も、途中から先頭に立つとそのまま押し切りました。入障後2連勝ですから、障害転向は大成功でした。そこから半年ほど休養し、障害オープンで復帰しましたが、休みボケか、8着とふるいませんでした。しかし、続く大一番の中山大障害では、先行して2着になだれ込む快挙。障害4戦目でのこの成績は、なかなか大したものです。

 こうなると当然次走は期待されますね。中山新春ジャンプSでは、1番人気に推されます。が、スタートで後手を踏み、全く良いところ無しの11着。惨敗です。続く春麗ジャンプSと障害オープンも、3着、5着と今ひとつ。そしていよいよの大本番、障害初のG1レース・第1回中山グランドジャンプ(前年までは中山大障害・春)では10頭立ての6番人気という評価でした。鞍上は初障害からずっと手綱を取っていた大江原隆騎手です。

 その日は雨が降りしきっていました。馬場状態はもちろん不良。私はこの馬場状態から有力馬をばっさり切り捨て、特にスタミナのありそうなメジロファラオと、無類の飛越巧者でサバイバルレースに滅法強いケイティタイガーの一点買い。レースは先ずファイブポインターが逃げ、その後ろにメジロファラオ。1番人気のゴットスピードは中団からの競馬。私が指名したもう一頭、ケイティタイガーも、いつものように控えた競馬でした。

 一番深いバンケットを下って上ると、いよいよ大障害コース名物・大竹柵障害。ここでファイブポインターはバランスを崩し、その隙にメジロファラオが交わして先頭に立つと、そのままぐいぐいと差を広げ、独走態勢へと入りました。そこから逆回りに半周し、再び一番深いバンケットをクリアすると、いよいよ最大の難関・大生垣障害(通称赤レンガ)。障害のレベルが低下してきた昨今、大竹柵と大生垣で何頭かが落馬をするのが当たり前のようになっていますが、この時はどの馬も落馬することなく、二つの難関をクリアしていきました。その点では初の障害G1レースに相応しい内容だったと思います。もちろん我がメジロファラオとケイティタイガーは、全く危なげ無しに大障害をクリアしていきました(ここでだいぶ期待感が高まりました)。

 大生垣をクリアすると、再び順回りとなり、スタンド前と1・2コーナー中間の障害が待ちかまえています。特に1・2コーナー中間の障害は、通常使う障害の中では一番高い。大障害をクリアしてもここで落ちる馬もいるくらいです。でもファラオは無難に飛んで、続くバンケットを下って上り、大きなリードを保って向正面へと向かいました。残る障害はあと3つ(飛越障害×2,バンケット1)。私も一安心。あとはケイティタイガーの追い上げを期待するのみ・・・・のはずが・・・、メジロファラオはもう疲れていたのです。無理もありません。ただでさえ過酷なレースなのに、不良馬場はスタミナ面で深刻なダメージを与えるのです。内心ヒヤッとしましたね。

 向正面には竹柵障害が1つあります。何でもない低い障害ですが、もうメジロファラオは脚が上がらなくなっていました。飛越に失敗し、着地の際に前のめりに。落馬か!と一瞬思えましたが、大江原隆騎手は何とか持ちこたえました。そして・・・直後に1発、2発、3発と、ムチを入れたのです。それはまるで「まだ終わりじゃないぞ!」と、馬を叱咤するように。

 そのムチは絶大な効果をもたらしました。メジロファラオは俄然息を吹き返し、バンケットをクリアして最終障害へ。これは綺麗に飛んで、最後の直線へと向かったのです。大江原隆騎手の肩ムチに答え、もうほとんど上がらなくなっている脚を根性で上げ、中山の急坂を水飛沫を上げながらゴールを目指すメジロファラオ。見ていて気の毒になるくらい、明らかに疲れ切っている。でも、他の馬も同じ事。追ってくるのはケイティタイガーただ1頭でしたが、そのケイティタイガーにも、もはや捉える余力は無い。メジロファラオは6馬身の差を付けて、見事初代中山グランドジャンプ勝ち馬となりました。私はまたお小遣いにありつけたのですが、これだけ過酷な条件ながら両馬が頑張ってくれただけに、私にとって5本の指に入る嬉しい馬券でした。障害、特に大障害のゴール前は迫力こそありません。平地なら上がり3ハロン33秒なんて今では当たり前ですが、大障害では40秒を切る事なんてほとんど無い。でも、スピード感だけが競馬の醍醐味ではないです。騎手はバテた馬を懸命に追い、馬もまた頑張ってゴールを目指す。その姿には平地競走とはまた違った感動があるのです。この光景を見て思わず「頑張れ」と叫びたくなるのは、私だけではないはずです。

 メジロファラオにとって初の重賞制覇でしたが、同時に大江原隆騎手にとっても重賞初制覇でした。彼が初の重賞制覇だったことは、少々意外でした。もっと活躍していたと思っていたから。でも、考えてみれば大江原といえば兄の哲さんの方で、隆さんはいつも兄の陰に隠れていて地味でした。その彼が初めて制覇した重賞が、栄えある第1回の中山グランドジャンプだったのです。

 私は払い戻しを済ませ、メインレースを見ずに中山を後にしました。メインまでいると、帰りが混雑してしまうからね。帰ってから撮ってあったビデオを見たのですが、例の飛越を失敗したシーンは、何度も繰り返して見ました。見れば見るほどあのムチは大ファインプレーでした。大江原隆騎手は、勝利騎手インタビューで、馬がよく頑張ってくれた、馬が我慢してくれたと、涙ながらに繰り返していました。馬のおかげで勝てた。その言葉は彼の偽らざる気持ちだったのでしょう。

 でもね、もしメジロファラオが言葉を話すことが出来たら、きっとこう言ったと思うよ。「あそこで隆さんが気合いを入れてくれたから頑張れたんだ」って。

 その大江原隆騎手も引退しました。今後は調教助手として再出発。いつか大障害を勝つ馬を出して欲しいのですが・・・。




そこまでやればあんたはすごい<メジロワース>

 メジロワースは1985年生まれ。父はモガミで母はキャットロンシャン(母の父シャトーゲイ)という血統。母は名前からして、江戸屋猫八さんの馬(だったかな?)。キャットエイトをはじめ、キャットオーなど、キャットの冠称で親しまれていました(って、どうでもいいか)。

 1987年、3歳になったメジロワースは11月の新馬戦に出走し、あの河内洋騎手を背に、5馬身差の圧勝でした。そして次走は阪神3歳ステークス。栄光のGIです。二番人気に推されたメジロワースですが、結果的にはサッカーボーイから2秒近くも離されての7着、完敗でした。しかもその後、13ヶ月もの長期休養を余儀なくされ、大事な(クラシックレースのある)4歳時を完全に棒に振ってしまいました。

 1989年の1月に何とか復帰した彼ですが、その年は12戦して1着3回、2着8回、7着1回という成績。全て条件クラスですが、900万クラスでは常に勝ち負けになる有力馬の一頭でした。

 1990年、6歳になった彼は、その年初戦の新春賞で1番人気に推されながら8着と惨敗します。しかし、気を取り直して次の八坂特別を勝ち、準オープンに上がり、ポートアイランドステークス2着と好走しました。そして次走が、格上げ挑戦となる読売マイラーズカップ(G2)です。メジロワースは関西馬でした。しかも関西の条件戦ばかり走っていた馬ですから、関東人の私にはあまりなじみが無かったんです。ってことでこのレース、どんなレースをしたかは見ておりません。が、重馬場が味方したのかもしれませんが勝ったのは間違いないです。しかもこの時は、皐月賞馬・ヤエノムテキ(この半年後には天皇賞馬にもなる)や、重量の常連・ナルシスノワールを打ち負かしているのですから大したものじゃないですか。天晴れです。が・・・、その後はオープンのコーラルS、栗東S、京阪杯(G3)、阪急杯(G3)を走り、いずれも着外と惨敗しました。マイラーズCはフロックだったのか? それとも良馬場に泣いたのか(普通は不良馬場に泣くと表現するものですが)?、とにかく勝てませんでした。まぁ、阪急杯以外は着順は悪くても着差は1秒差以内ですから、それほどひどい負け方はしていない。走り続ければいずれまた重賞を・・・というのも考えられるのですが、阪急杯からわずか20日後、彼は信じられないレースに出走してきました。中京の障害未勝利戦です。

 メジロワースはモガミの仔です。モガミの仔と言えば、そう、障害です。モガミはリファールの仔ですが、リファールはマイラーを多く出すだけでなく、欧州最強馬・ダンシングブレーヴのような選手権距離に強い馬も排出します。モガミも後者のタイプで、シリウスシンボリ(ダービー)やレガシーワールド(JC)などを出しましたが、特筆すべきは障害での圧倒的な強さでした。この頃は既に、モガミの仔が障害戦でブイブイいわしてましたから、先行き不安な平地オープンよりも、障害の方が望みがあると読んだのかもしれません。モガミの仔が何故障害に向いているのか? もちろんスタミナがあるのも重要なポイントなのですが、もっと大事なのはその気性。モガミの仔は気が強く、気性に難のある仔が多いのですが、障害ではその気性がプラスにはたらくことが多いのです。障害を怖がらずに向かっていく精神力につながるのでしょうね。

 さて、障害初戦では堂々と1番人気に支持されました。平地オープンだからといって簡単に勝てるとは言えないのですが、でも1番人気でした。重賞勝ちの威光が燦然と輝いたのかもしれませんね。で、結果は?・・・この話の展開からすればボロ負け・・・ってのが流れですが、彼は2着に5馬身差を付けて、余裕の圧勝でした。続く障害400万下も1番人気でクビ差ですが勝利しました。そして次はいよいよ、重賞の中京障害ステークス(秋)です。ここもまた一番人気で、重馬場ながら4'02"0(3600m)のレコードで勝ってしまいました。障害入りして3連勝、向かうところ敵無し???

 次は関東初見参となる東京障害特別(秋)です。ここでも1番人気ですが、馬券的には当然はずしです。何故かというと・・・、当時の東京障害特別は今の東京で開催されるどの障害レースよりもタフなレース。特に襷コースの3連続障害は、高さ150cm級の障害が短い間隔で並ぶ、意外な難コース。中京で連勝してきて人気になっているなら、外す方が面白い(理由は15行ほど下に)。案の定結果は4着でした。

 その後しばらく休んで、1991年は前年の秋に負けた東京障害特別(春)で復帰しましたが、ここも案の定5着に敗れました。ですが、次の中京障害ステークス(春)はまたも重馬場でしたが、4'01"6で自身の持つレコードを更新した上、7馬身差の圧勝劇を演じました。その後障害オープン2着、京都大障害(春)2着、障害オープン2着、1着ときて、いよいよ3回めの中京障害ステークス(秋)です。この伝説のレース(どこが!)、凄まじかったです。今回は不良馬場で、負担重量は63kg。それでも彼は、1番人気に推されました。レースでは重量が堪えたのか、それとも単に飛越が下手だったのか、障害で躓き落馬寸前。立て直したはいいけど4コーナーで挟まれ、直線でも前が詰まる。だが、メジロワースはすごい馬でした。飛越ミス、二度にわたる不利、63kgの負担重量、不良馬場という悪条件が重なったにもかかわらず、4'00"7と、またしても自身の持つレコードを更新し、1馬身3/4差で完勝したのです。もはやすごいを通り越して、ただただ呆れるばかり。

 当時、関西の障害界は、平地優先主義がまかり通ってました。つまり、障害を飛ぶのが下手で、飛ぶ度に脚をぶつけ、ドタバタ音を立てて飛ぶような馬でも、何とか全障害をクリアすれば、あとはオープン馬の脚力でぶっこ抜くというやり方。そしてその大将格がメジロワースだったのです。しかもこの馬はG2勝ちのある馬ですから、少しくらい飛びが下手でも、直線で突き抜けるだけの能力を持っていたわけです。障害と言っても本当にタフなコースは中山と東京の襷コース(現在は廃止)くらいのもの(それでも欧州に比べれば楽なもの)。関西は京都大障害とは名ばかりで、障害はさほど高くない。ましてや中京は障害専用コースが無く、芝コースに申し訳程度の障害を置いてレースを行うのですから、メジロワースにとっては一番の稼ぎどころ(逆にここでいくら勝っても中山や東京の襷コースで通用するとは言えない)。さらに言うと、何故中京障害ステークスが重賞なのか(本来は重賞ではない)。理由はその当時阪神競馬場が改装中だったため、その間の阪神障害ステークスを全て中京で代替開催したのでした。阪神の障害もそれほど高くないですが、中京はさらに低くて楽。それでいて賞金額は高いのですからまさにメジロワースに稼いでくださいという環境が整っていたのでした。とは言っても彼は、東京障害特別を2回使って2回とも完走しているのですから、それほど飛越が下手ではなかったのかも。もとい、やっぱり下手かな。すごく危なっかしかったもの。

 メジロワースはその後も2年間、関西の障害で走り続け、10戦5勝2着3回3着1回(2着の1回と3着は京都大障害)。でも中山見参は一度もなく、東京にもあれ以来来ておりません。1993年10月15日の障害オープン(阪神)で3.8秒もの差を付けられて完敗すると、ひっそりと引退しました。障害の全成績は21戦11勝。2着も6回あり、それ以外はたった4回。障害の世界では相当すごい成績なのですが、当然のごとく最優秀障害馬には一度も選ばれていません。平地優先でどんなに勝ち進み、莫大な賞金を稼いだとしても、最優秀障害馬にはそう簡単にはなれません。何故かというとこれを選考する委員は飛型点を優先するからで、中山大障害みたいなタフなレースを勝った馬でなければなかなか選ばれないのです。「平地の脚だけで勝つ馬は悪い奴」ってな感覚が障害の世界にはあるのですね。でも、平地の脚だけでここまで勝ちまくれば、やはり大したものだと思います。

 ところでこの馬、平地と障害を合わせて全部で43回走ってますが、その内、1番人気に推されたのが何と26回。国営競馬時代にはタマツバキの51回という記録がありますが、中央競馬になってからの記録はサラブレッドがハクチカラの23回、アラブはセイユウの25回ですから、メジロワースはその両方をまとめて抜いてしまったのです。が、中央競馬のレコードブックには記録されておらず、記録は以前のままだそうで。何故かは知りませんが、障害競走が含まれているのが関係しているのかな?


(文中の年齢は当時の表記によります)