U-Maの音楽館

記事2


日高の星<ブレイヴェストローマン>

 ブレイヴェストローマンは1972年アメリカ生まれ。父はナスルーラ系のネヴァーベンド(ミルリーフの父として有名)ですが、母・ローマンソング(父:ローマン)はテディ系×テディ系で、なおかつサーギャラハッドのクロスを持つという珍しい血統構成(テディ3×4×5、サーギャラハッド2×4)でした。テディ系のようなマイナー血統がしぶとく生き残っているアメリカらしい配合なのでしょうね。ちなみにネヴァーベンドとローマンソングとの間には血の重なりは生じていません。競走馬としては25戦9勝。G2のサラナクステークスを勝っていますが、まぁ、平凡な成績と言って良いでしょう。その平凡な彼が「日高の星」とまで呼ばれるに至ったのは、そう、種牡馬としての成績でした。

 ブレイヴェストローマンの代表産駒は、ファーストサマーディ(カナダオークス)、トウカイローマン(オークス)、マックスビューティ(桜花賞・オークス)、オグリローマン(桜花賞、東海公営G1・2勝)らのG1ホースですが、勝ったレースをよく見て下さい。4頭ともオークスや桜花賞が入っていますね。そう、全部牝馬なのです。特にマックスビューティは、エリザベス女王杯でタレンティドガールに敗れはしましたが、前年の牝馬三冠馬・メジロラモーヌよりも強いとまで言われてました。

 牡馬でもローマンプリンス(フェブラリーハンデを勝った、当時ダート最強の一頭)、ランドヒリュウ(高松宮杯、日経新春杯)、オサイチブレベスト(帝王賞)、グレートローマン(東海菊花賞他)、マルブツスピーリア(ウインターS)、カリスタグローリ(クリスタルカップ)、フジノマッケンオー(根岸S他)などを出していますが、多くはダート馬で、数少ない芝で走る仔もG2・G3級止まり。現在の競馬体系であれば、フェブラリーステークスや公営競馬の統一G1競走を勝ってもおかしくはないですが、ローマンプリンスあたりは、勝つほどに増えていく負担重量に泣かされた一頭でしょう。

 産駒成績を整理しますと、牝馬は芝のG1級を出し、牡馬はダートで強く、芝のG2・G3級も出すといったところでしょうか。G1馬を出しているのですから一流の種牡馬なのですが、一番というわけではありません。なのに何故、この馬が日高の星なのでしょう? その秘密は種付け料と牝馬がよく走るという点にあります。

 ブレイヴェストローマンの種付け料は、その実績からすれば破格の安さで、しかも中小の生産牧場を優先して種付けされてました。それ故日高地方の生産者(中小の牧場が密集している)にとっては、有り難い存在だったのです。しかもダートで確実に走りますし、健康にも特に問題はないのでそれなりの値段で売れる。活躍馬も、必ずしも質の良い牝馬の仔というわけではないので、良い牝馬を持たない牧場からも重賞ウイナーが出る可能性だってあります。それだけでも人気になる要素は十分なのですが、ブレイヴェストローマンは、さらに大きな特徴を持っていました。それは・・・

 せっかく種付けしても、その半分は牝馬が生まれます。牝馬は牡馬に比べて総合能力で劣るため、売却価格が2〜3割安くなってしまいますから、小さな生産者にとっては大きな痛手なのです。大きな牧場なら現役引退後に繁殖牝馬として引き取り、牧場の牝系を発展させるという、長い目で見たメリットがあるのですが、生まれた仔馬が売れてなんぼの中小牧場では、そうも言ってられません。ところが、ブレイヴェストローマン産駒は、牝馬の方が良く売れ、高く売れるという逆転現象が起こっていたのです。それはそうですよね。牝馬の方がよく走るし、G1級まで出すのですからね。取りっぱぐれが少なく、牝馬が生まれても牡馬以上によく売れる。こんなに良い種牡馬は滅多にお目にかかれるものではありません。多くの生産者がこの馬にお世話になったのです。そう、日高の生産者達にとって、この馬はまさに希望の星だったのです。

 その日高の星も、1994年7月4日、惜しまれつつこの世を去りました。ローマンプリンス、オサイチブレベストあたりが後継種牡馬ですが、案の定というか、ローマンプリンスがイワテニシキを出した程度で大した活躍はせず、どちらも既に廃用となっています。が、そんな中、カリスタグローリがなかなかの種牡馬成績を残しています。カリスタグローリはクリスタルカップ(芝1200m・G3)を勝った程度の馬なのですが、名門・スターロッチ系という血統が買われ、種牡馬となりました。産駒の数は数えるほどなのですが、2歳戦を中心に、中央でもダートの短距離で何頭か勝ち馬を出しています。早熟で、将来性は期待できませんが、このクラスの種牡馬としては期待以上の成績でしょうね。何しろ当初は種付け無料だったのですから。ダート1000〜1200mの2歳新馬や未勝利戦で、全然人気のないカリスタグローリ産駒が出ていたら、遊びで買ってみるのも面白いかな。
*カリスタグローリはもうとっくに種牡馬を引退しておりますが、以前書いた文章をそのまま載せました。そして何と、1頭だけですが重賞の勝ち馬も出しました。




ニフティニース&ニフティダンサー姉弟に乗ってた人、だ〜れだ♪

 ある方からのリクエストで、今回は騎手の話です。印象に残っている騎手ということでしたが、何分にもマニアックな私のこと、有名な騎手であるはずがありません。竹原啓二(元)騎手なんて、知らないでしょう? 1973年にデビューし、以後25年間ほどの現役期間であげた勝ち鞍が340ほど、重賞が9勝(だったかな?)という、ジミーな騎手でした。私が見ていたのは彼の騎手人生の後半だけでしたが、その頃は毎年20勝くらいをコンスタントにあげておりました。中堅どころといったところでしょうか。でも、地味ではありましたが、かなり信頼できる騎手だったことは確かです。

 年間20勝クラスの騎手は、勝率が1割以下、連対率もせいぜい1割台前半というのが普通なのですが、竹原騎手は勝率2割弱、連対率は3割を超えて当たり前。関東ナンバーワンの岡部幸雄騎手と、毎年勝率・連対率ナンバーワンを争っていたのです。何のことはない。勝ち鞍が少ないのは単に騎乗数が少ないからで、年間およそ130戦くらいしか乗っていなかったのです。その中でコンスタントに20勝くらいできるのですから、決して腕の悪い騎手ではなかったのです。私の中では迷った時は竹原騎手から・・・なんてのも馬券作戦として立派に成立していましたし、結構当たってましたよ。

 彼の勝率・連対率の高さは、松山親子厩舎(父:吉三郎&息子:康久)の馬に乗っていたことも関係しています。元々松山厩舎(どちらだったかなぁ)所属の騎手で、フリーになってからもほとんどは松山厩舎の馬に乗っていたのですが、何しろここは関東の名門厩舎の一つで、三冠馬ミスターシービー(康久厩舎)をはじめ、多くの名馬を出しています。その両厩舎の馬に乗っていたのですから、この好成績も納得できますね。でもやはり一線級の馬にはあまり乗っていなかったなぁ。

 そんな竹原啓二騎手が乗った馬で、最も彼を輝かせた馬はニフティニースでしょう。

 ニフティニースは1987年生まれの持ち込み馬(母の胎内に入ったまま輸入され、日本で生まれた馬)で、父は大種牡馬レイズアネイティヴ、母はニフティアンドニートという快速牝馬でした。デビューは1990年7月の福島、4歳未勝利戦(1着)。もう既に春のクラシックロードは終わり、夏のローカル開催でようやくデビューにこぎ着けたのです。デビューが遅れたのは快速馬にありがちな脚部の不安が原因でした。スピード能力は一級品でしたから、もし春のクラシック路線で走っていたなら、桜花賞で上位人気に推されていたでしょう。ニフティニースの成績は12戦7勝でセントウルS、関屋記念という2つのG3競走を勝っています。しかも1991年のセントウルS(この年は中京、本来は阪神)は、1200m 1'07"9というレコードタイムでした。ニフティニースは引退レースとなった根岸S(14着)を除いて竹原騎手を背に11回走り、重賞2勝、掲示板(5着以内)10回という成績を収めました。また、その能力の高さから、順調に使えていれば、マイル以下のG1でも善戦できた(勝てたかもしれない)とも囁かれていました。

 一方、馬券的に印象深かったのは、ニフティニースの一つ下の弟、ニフティダンサー(父:ノーザンテースト)かな。ニフティダンサーは28戦7勝で、姉ほどの信頼性はなかったものの、七夕賞(G3)を勝ってます。新馬勝ち(岡部騎手)を収めたのですが、500万下を6戦(坂井騎手が1回、他5回は岡部騎手)を善戦したものの勝ちきれず、2勝目をあげたのは緒戦を勝ってから1年半もたった5歳の秋で、新潟の三国特別を、テン乗り(その馬に初めて騎乗すること)の竹原騎手を背に、久々の勝利を収めたのでした。しかし、中山の印旛沼特別(岡部騎手)は1番人気で8着。続く東京の西湖特別に出走してきた時は7番人気でした。

 この西湖特別、私の兄が新聞を見ながら悩んでました。兄はアイルトンシンボリ(シンボリルドルフの仔で後の重賞ウイナー)に目を付けていたのですが、相手が絞れない。それで私に聞いてきたのですが、私は迷わずニフティダンサーを指名しました。それまで9戦して2勝、2着2回。前回8着で人気落ちしてましたが、2着なら十分に確保できる。岡部騎手から乗り替わりとは言っても、替わった騎手は信頼できる竹原騎手とならば、勝ちまで狙えると読んだのでした。何でもない特別レースだったので、兄が買ったのはアイルトンシンボリ・ニフティダンサーの馬連1点。テレビで観戦し、この2頭が並んでゴールインした時は、二人で大喜びしました。結果は何と1着同着。馬連万馬券でした。私が買ったわけではないのですが、兄から小遣いとして福沢諭吉のブロマイドを3枚ほどもらった記憶があります♪ でも兄に聞いてみたら、アイルトンシンボリを選んだのは、その日がF1日本グランプリの開催日だからという理由。アイルトン・セナ→アイルトンシンボリという図式だったらしいです(^_^;) でもこういうのって不思議と来たりするから面白いです。

 竹原騎手でもう一頭挙げるならガクエンツービート。昭和63年の菊花賞2着馬です。人気はなかったのですが、父がハードツービートという筋金入りの長距離血統なので、目を付けてました。そしてレースでは、スーパークリークの2着に突っ込み、竹原騎手の株を上げてくれました。勝てばもっと株が上がったと思いますが、2着というところが地味な竹原騎手らしいのかも。結局G1レースでの実績はこれが最高でした。はい、こんな地味な騎手ですみませんです。

 竹原騎手は96年版のジョッキー名鑑(ある人のサインが入っているので保存してあるんです)に載っていますが、その後、知らないうちに消えていました。調教師にもなっていないので、今は何をしているか知りません。人気騎手でもなかったので、もはや調べようもありません。

 とまぁ、私らしい記事でしたが、人気騎手もちょっとだけ挙げておきましょう。人として好感が持てたのは関東の雄・柴田政人騎手です。この人は乗る馬を、常に「最初に依頼が来た馬」と決めておりました。どんなに強い馬の騎乗依頼が来ても、その前に他の馬への騎乗依頼があれば、「申し訳ありませんが、もう乗る馬が決まっておりますので」と、丁重にお断りしていました。たとえ先に依頼のあった馬が勝てそうにない馬であっても。当然、関東で既に乗る馬が決まっていれば、同じ日の関西のG1レースで有力馬から依頼が来ても、「当日はこちらで乗る馬がいますので」という具合に。

 騎乗もまた綺麗でした。フォームが美しいということではなく、他の馬の邪魔をしないという点において。強引に行くような場面は、あまり見たことがないです。これも、「自分が邪魔をしたことによって勝ちを逃したのでは申し訳ない」ということだそうです。

 名騎手であったのは事実ですが、スター性はあまりなく、どちらかと言えば職人的な騎手でした。関西の河内騎手も職人的でしたね。このスタイルが騎手として良いのか悪いのかは分かりません。強い馬を選んで乗ればもっと勝てたでしょうし、何故ここで突っ込まなかったのか・・と思われるレースもありました。ある意味では勝負に淡泊で、騎手としてもっと貪欲になっても良かったのかもしれませんね。でも、そのような人ですから厩舎関係者からの評判はすこぶる良く、信頼を得ていました。彼の輝かしい成績は、この信頼で勝ち取ったものと言ってもよいでしょう。現在は調教師で、既に100勝以上あげていますが、重賞勝ちは今のところありません。でも、まだまだこれからです。




泥臭くも栄冠を勝ち取った根性娘<イクノディクタス>

 イクノディクタスはその名からも分かる通り、ディクタスの娘です。ノーザンテーストとともに社台牧場の躍進を担った種牡馬として有名ですね。母の父はノーザンテーストで、当時はディクタス×ノーザンテースト牝馬、ノーザンテースト×ディクタス牝馬というのが、社台牧場の王道とも言える配合でした。サッカーボーイを出したディクタスですが、ノーザンテーストほどの成功は収められませんでした。と言うのも、ディクタス産駒は気の荒い馬がほとんどで、マイル〜中距離のスピード能力は高かったものの、気性的にムラ駆けする馬が多く、それが大成を阻んでいたと思えます。一方息子のサッカーボーイはディクタス産駒の特徴をもろに出していた競走成績とは裏腹に、ナリタトップロード、ヒシミラクル、キョウトシチーなど、長距離に強い馬を多く輩出し、内国産種牡馬のエース格に君臨しています。

 イクノディクタスは2歳時、セリにかけられます。その時注目されていたのは「ハギノトップレディの87(父はトウショウボーイ)」でした。華麗なる一族と呼ばれた名牝系の出で、父が「天馬」とあらば、注目されるのも無理はありません。ハギノトップレディの87は一億円の高値で落札され、後にダイイチルビーの名でターフを湧かせました。一方ダイナランディングの87(イクノディクタスのこと)は、その年から中央競馬に馬主登録された勝野憲明氏が、930万円で落札しました。(馬としては)手頃な値段で、良いお買い物だったと思います。何しろこの馬・・・

 翌年7月にデビューしたイクノディクタスは、小倉で新馬、フェニックス賞(3歳レコード)と連勝し、幸先の良いスタートを切りました。小倉三歳Sと萩Sは着外と振るいませんでしたが、デイリー杯三歳S5着、阪神の三歳牝馬S(阪神3歳牝馬ステークスとは別物)3着と、そこそこの成績を残しました。

 1990年、四歳時は、クラシックロードを歩みます。しかし春は全く振るわず、トライアルも含めて全て着外。秋はサファイアS3着、ローズS2着、エリザベス女王杯4着と健闘しましたが、結局一つも勝てませんでした。一方、セリで彼女の10倍以上の値が付いたダイイチルビーも、クラシックは一つも勝っていませんから、その時点では痛み分けと言ったところでしょうか。

 1991年、五歳になったイクノディクタスは、四戦目のコーラルSで久々に勝利しました。続く京王杯SCはブービーと大惨敗でしたが、京阪杯で初の重賞ウイナーとなりました。その後2戦は着外でしたが、小倉日経賞、北九州記念、小倉記念、朝日チャレンジCを3,2,3,2着と、堅実に走り、賞金を稼ぎました。もうその時点で購入価格を大幅に超えていましたから、ここで引退したとしても十分なほどの成績を残したのです。しかし・・・、かのダイイチルビーは遂にその素質を開花させ、その年の安田記念とスプリンターズSを制し、マイルCSでも2着するなど大活躍し、セリで付けられた差は縮まらないどころか、逆に離されてしまったのでした。

 こんなところで引退していたら、根性娘の名が廃ります。1992年、六歳になった彼女は、ひたすら走り続けます。関門橋S、小倉大賞典、中京記念、産経大阪杯、メトロポリタンS、新潟大賞典、エメラルドS、金鯱賞、高松宮杯、小倉記念、産経オールカマー、毎日王冠、天皇賞・秋、マイルCS、ジャパンC、有馬記念と、一年で16戦もこなしてしまいました。しかも、重賞の金鯱賞、小倉記念、産経オールカマー(レコード)を勝ち、毎日王冠も2着ですから、素晴らしい成績と言って良いでしょう。さすがにG1では歯が立ちませんでしたが、ひたすら走り、ダイイチルビーとの差を確実に詰めていったのです。ちなみにこの年は何と、最優秀五歳上牝馬に選定されましたが、該当馬なしでもおかしくなかったです。恐らくこれは、彼女の直向きな走りが、選考委員の心を動かしたのでしょう(そう思いたいですね)。

 そして1993年、七歳になった彼女でしたが、なおも走り続けました。日経賞、産経大阪杯、天皇賞・春は二桁着順は免れたものの、掲示板にも載らない。女丈夫ももはやこれまでと、誰もが思っていました。しかし、イクノディクタスの根性は、そんな程度ではなかったのです。天皇賞の後、彼女は安田記念に出走しました。16頭立ての14番人気と、人気はまるで無し。前年の覇者・ヤマニンゼファーに、シンコウラブリイがどう挑むかが注目の的でした。そしてレース。直線で早々と抜け出したヤマニンゼファーを追い、激烈な2着争いが繰り広げられ、そして、大混戦のままゴールになだれ込んだ中、持ち前の根性を発揮してほんのわずか前に出たイクノディクタスが2着に突っ込んだのでした。そしてその瞬間、あのダイイチルビーを歴代賞金女王の座から引きずり下ろしたのです。ルビーはとっくに引退していましたが、こつこつと走り続け、生まれた時から付いていた差を少しずつ縮め、遂に追いつき、追い越したのでした。

 その勢いで宝塚記念にも出走し、メジロマックイーンの2着と大健闘した彼女の獲得賞金は五億円を超えました。落札価格930万円の馬が五億円とは!ほんと、競馬って素敵ですよね。その後テレビ愛知オープンを勝ちますが、秋は4戦して良いところ無く、富士Sを最後に引退しました。奇しくもその一週間後、マイルCSをシンコウラブリイが制し、イクノディクタスの賞金女王は在位わずか半年でした。でも、たった半年とは言えど、女王の座に君臨し、名を残したのは紛れもない事実です。しかも彼女は決して恵まれた才能の持ち主ではなかった。大輪の花を咲かせてさっと引退していく良家のお嬢様方を尻目に、泥臭くもひたすら走り続け、ついに、ただの一つもG1レースを勝つことなく女王の座に君臨したのです。決して目立たず、でも逞しく咲く雑草の強さを持った馬でした。通算51戦9勝、獲得賞金531,124,000円、1992年最優秀5歳以上牝馬、1993年5月16日〜11月21日まで約半年間歴代賞金女王に君臨。これが彼女の勲章です。繁殖牝馬としてはあまり良い成績ではありませんが、いつか、彼女を彷彿させる仔が出てくるかもしれません。
文中の年齢は当時の表記によります。




地方にもこんな化け物が!<トウケイニセイ>

 トウケイニセイは1987年生まれ。父はトウケイホープ、母方はマイナーな血で塗り固められいる地味〜な血統。しかも生まれた頃は体が弱く、当歳(その年に生まれた馬)時は肺炎を患うなどしたため、大して期待されてはいなかったでしょう。

 当然のように地方競馬行きとなった彼ですが、平成元年9月、水沢競馬場の3歳G5でデビューし、見事勝利を飾りました。ですが、屈腱炎を発症していたことが判明し、治療のため、1年半もの休養を余儀なくされてしまいました。その時点では、後に化け物みたいな成績を残すとは、誰もが思わなかったでしょうね。

 長いブランクを経て復帰したのは平成3年の4月。関係者も半信半疑だったでしょうが、翌平成4年10月まで、水沢・盛岡でG5×5、G4×2、ながつき賞、G3、G2、六華賞、G1×6(Gはグループの略で、重賞レースの格付けを表すグレードとは別のものです)と、破竹の17連勝。デビュー戦も含めると、負け知らずの18連勝を飾ったのでした。このデビューからの18連勝というのは、何と当時の日本記録です。すごいですね〜っ。11月のG1では惜しくも2着で、連勝記録は途絶えてしまいましたが、12月のG1でまた勝ち、翌平成5年もG1×3、みちのく大賞典、東北サラ大賞典、北上川大賞典、南部杯、桐花賞と、負け無しの8連覇。さらに平成6年も赤松賞、シアンモア記念を制し、都合11連勝。18連勝の後2着が1回あって、その後また11連勝とは! 何という強さでしょう。2連覇を目指したみちのく大賞典は惜しくも2着でしたが、東北サラ大賞典、南部杯、北上川大賞典は見事2連覇。さらに’94フレンドリーカップを制した後、年末の大一番・桐花賞も2連覇と、その勢いは全く止まらない。岩手地区のレベルは決して低くなく、そこでこれだけの戦績をあげたのですから、天晴れです。

 なんかここで終わりそうな言い方ですが、トウケイニセイ君は翌平成7年も現役で走り続けました。御年9歳です。しかし彼は衰えなど知らない。赤松賞、シアンモア記念、東北サラ大賞典と3連勝し、みちのく大賞典は前年に続きまたしても2着、しかし、’95フレンドリーカップを制し、南部杯3連覇に挑みました。しかし・・・。大事件が起こってしまいました。

 1995年10月10日のマイルCS南部杯(水沢競馬場)。実はこの年から全国交流のレースとなり、当時、ダート交流レースで無敵の強さを見せていたライブリマウントをはじめとする一流の馬が多数参戦し、トウケイニセイがどう迎え撃つかが話題となり、この大勝負を見る為に全国から多くのファンがが駆けつけたのです。レースは大歓声の中で始まりました。トウケイニセイは先行し、3コーナーあたりで仕掛けるといういつもの作戦を取ったのですが、勝負どころの3コーナーでついていけなくなり、ライブリマウントどころか、ヨシノキングにも先着され、3着に沈んでしまいました。デビュー以来41戦して、一度も連を外したことのなかったトウケイニセイが3着! これはもはや大事件でした。

 失意のトウケイニセイは、そのまま引退という噂もささやかれましたが、年末の桐花賞に出走し、有終の美を飾って引退しました。通算成績43戦39勝2着3回3着1回、獲得賞金3億円超、41連続連対(日本記録)、重賞15勝、重賞7連勝という立派な成績でした。トウケイニセイは一度上山で走った以外は、全て水沢・盛岡でのレースでしたから、ある意味では内弁慶でした。でも、ここまでの成績を残したのですから、それは素直に評価すべきだと思います。

文中の年齢は当時の表記によります。




地味で渋いタフネス母ちゃん<ユウミロク>

 ユウミロクは昭和58年生まれの牝馬。父はダービー馬・カツラノハイセイコ(ハイセイコーの初年度産駒で、父の無念を晴らした孝行息子)、母の父はインディアナ(ハイセイコーに大レースでことごとく土を付けたタケホープの父でもある)という地味渋血統。大して期待されていたわけでもなく、抽選馬(*)として馬主の清水氏に売却されました。昭和60年6月、早々と札幌の新馬戦でデビューし6着、続く新馬戦も2着。函館に転戦し、未勝利戦2着の後、4戦目の未勝利戦で1番人気に答え、初勝利を飾りました。その後6戦して掲示板5回と、そこそこには走りましたが、善戦止まり。昭和61年2月の4歳抽選馬特別で1番人気に推されながら2着(0.9秒差の完敗)、続くチューリップ賞も3着でした。1勝馬ながら桜花賞に出走するも、12着、しかし、続くたちばな賞で1着となり、優駿牝馬(オークス)に出走しました。ここまでに休みもなく14戦を消化し、オークスは15戦目。タフではありますが、良績もなく9番人気。ですがここで、彼女は生涯最高のレースをし、メジロラモーヌの2着に突っ込みました。メジロラモーヌは言わずと知れた史上初の牝馬三冠馬。そしてこの時の3着はダイナアクトレス。彼女は体質的な弱さに悩まされながらも、潜在能力は第1級の名牝でしたが、ユウミロクはそのダイナアクトレスに先着したのです。血統的にタフで長距離向きだったこともありますが、その実績はやはり評価すべきでしょう。

 初の休養をもらった彼女は8月末の函館記念で復帰し、UHB杯、ローズS、エリザベス女王杯と出走しましたが、人気も成績も今ひとつ。オークス2着はフロックと見られていたのでしょうが、それを証明してしまうかの結果に終わってしまいました。翌年もローカルを中心に使われ続け、10戦して1勝。その1勝は福島の父内国産馬限定戦・カブトヤマ記念(G3)。初重賞制覇でしたが、それがとても渋〜いレースというのが彼女らしいと言えますね。さらに翌年も現役を続行しましたが、11戦して3着が最高。その翌年も2戦しますがいずれも掲示板を外し、7歳で引退となりました。全成績は42戦3勝、1番人気に推されたのはたったの2回という、実に渋い成績でしたが、総賞金は105,383,800円ですから、抽選馬としては十分な成績だったとも言えるでしょう。

 引退して繁殖に上がったユウミロク。オークス2着の実績はあるものの、スタミナとパワーに偏り、絶対的なスピードに欠けていた彼女は、あまり配合相手には恵まれませんでした。でも、ユウミロクの逆襲は秘かに始まっていたのです。平成4年の産駒・ユウセンショウ(父:ラグビーボール)は長距離重賞の常連としてタフに走り、目黒記念(G2)勝ち、ダイヤモンドS(G3)2連覇を含む42戦6勝、総賞金236,640,000円を獲得しました。まさに母譲りのタフさとスタミナを兼ね備えた渋い馬でしたね。翌平成5年の産駒・ゴーカイ(父:ジャッジアンジェルーチ)は25戦1勝と振るいませんでしたが、障害に転向してからその素質を開花させ、中山グランドジャンプ(J・G1)2連覇、同レース2着1回、中山大障害(J・G1)3年連続2着、東京ハイジャンプ(J・G2)1着、東京オータムジャンプ(J・G3)1着と大活躍。障害では28戦8勝で、2年連続最優秀障害馬の栄冠を獲得し、総賞金も5億円に達しました。ゴーカイは落馬が1度もなく、久々に見る名ジャンパーでした。少し間を空けて平成9年の産駒・ユウフヨウホウ(父:ラグビーボール)は平地6戦0勝、障害21戦2勝ですが、その内の一つが中山大障害。その時の2着は兄・ゴーカイで、見事兄弟ワンツーフィニッシュを達成しました。もう一頭、マイネルユニバース(父:メジロマックイーン)も障害戦で走っていましたが、ユウフヨウホウもマイネルユニバースも、障害をナメて飛んでいる感があり(決して下手ではないのですが)、落馬が多く、ゴーカイの域には遠いと言わざるを得ません。しかし、障害の最高峰を制した馬を2頭も出したというのは、ユウミロクが繁殖馬として優秀だということでしょう。タフでスタミナ旺盛というユウミロクの性質が、特にタフなレースである大障害に向いていたと考えられますね。

*抽選馬
 中央競馬会がセリ等で買い上げた馬を一定期間育成した後、希望する馬主に抽選で配布する馬。安価ではあるが、 値段の割にはよく走る馬が多いとも言われている。

文中の年齢は当時の表記によります。




暑い国からやって来た最強(?)馬・・・<Own Opinion>

 ジャパンカップは日本の競馬体系の中では最高峰に位置するレースで、バカ高い賞金はとても魅力。一流の馬が参戦することも多くなり、レベルはなかなか高いですね。とは言っても秋の王道は凱旋門賞→ブリーダーズカップで、これらに肩を並べるという域にはまだまだ遠いと言わざるを得ません。でも海外でも注目されるレースに育ってきたことは紛れもない事実で、今後も一流馬を続々と招待し、日本競馬を引っ張っていって欲しいレースです。最近ではジャパンカップダートも創設されましたが、日本のダート競馬は芝に比べてまだまだ貧弱。今後ダート競馬の体系をもっと整備し、ジャパンカップダートをジャパンカップと同等のレベルにまで高めて欲しいですね。贅沢と言えばそれまでですが、芝もダートも楽しめるところが、日本の競馬の良いところです。

 さてそのジャパンカップ、今でこそハイレベルな競走ではございますが、創設当初はひどいものでした。例えば第3回。勝ったのはアイルランドの女傑・スタネーラ、そして2着に天皇賞馬・キョウエイプロミスという結果。えっ? レベルの高いアイルランドで女傑とまで呼ばれる馬が1着で、天皇賞馬が2着なら何がひどいって言うの?。確かに結果だけを見ればそうなのですが、もっと正確に言うと、体調不良で当日の朝まで関係者が寝ずの番をしていたスタネーラが1着で、レース中に競走馬として致命的な故障を発症したキョウエイプロミスが2着なのです。体調不良ながら優勝したスタネーラ、故障を発症しながらもスタネーラに肉薄したキョウエイプロミス、この両馬の頑張りは称賛に値します。でも、そこまでひどい状態のスタネーラが勝ててしまうというところに、当時のジャパンカップのレベルの低さがうかがえますね。そういえばその前年(第2回)は、アメリカから世界の賞金王・ジョンヘンリーという、超一流の化け物みたいな馬が参戦したのですが、終わってみれば13着と惨敗。創設当初のジャパンカップは物見遊山的な外国馬が大挙して来たのも事実でした。何しろ費用は中央競馬会持ちだから、日本観光に来て、ついでに怪我をさせない程度に馬を適当に走らせる、ってな感じだったようです。また、種牡馬の売り込みという側面もありました(今でもそうか?)。そんな中からトニービンみたいな大種牡馬が出ていますから、一応結果は出していますね。

 さて、記念すべき第1回ジャパンカップ。ヨーロッパからの参戦はなく、日本、北米、アジアの馬達によるレースでした。その中でもひときわ異彩を放っていたのが、「インドのシンザン」こと、オウンオピニオン号でした。来日する時には「インドで54戦54勝、無敗の帝王」という噂もあったらしいですが、これはウソ。そういえば54戦54勝ってのはキンツェムの持つ無敗最多勝世界記録ですから、やっぱり嘘くさいですね。実際にはそれまでに50〜60回ほど(正確なところは不明)走って27勝だったようです。でも、素晴らしい成績ですし、インドでは歴代屈指の名馬だったということは事実らしいです。それでもインド競馬のことなどほとんど知られていないため、ゾウと併せ馬(?)をしてきたとか、勝ったレースにはダチョウをクビ差抑えて勝ったのも含まれるとか、散々な噂も飛び交っていたとか。でもきっぱりと否定できない、ひょっとしたらそんなこともあったのかな? と思えるところが怖い。インドの競馬って、全く馴染み無いですからね。コルカタ、ムンバイ、バンガロールあたりには競馬場があるようですが、どんなレースが行われ、どれほどのレベルなのかも良く分かりません。ちなみにこの年は、トルコからも一頭招待されていましたが、残念ながら出走には至りませんでした。

 オウンオピニオンは、ジャパンカップ前の一叩きとして富士ステークスに出走しました。現在でこそ1400mの重賞で、マイルチャンピオンシップのステップレースですが、そもそもはジャパンカップの前哨戦として創設された、1800mのオープン特別(国際招待競走)でした。オウンオピニオンは7頭立ての5番人気。お国では最強の名を欲しいままにした名馬がこれほどの低い評価を受け、「インド競馬をナメるな!」と思ったかどうかは知りませんが、オウンオピニオンは果敢に先頭に立ち、レースを引っ張りました。が、4コーナーでは重賞未満の馬達に次々と交わされ、終わってみればどん尻負け。その結果に愕然とした関係者が「インドに帰る」と言い出したため、「まぁまぁ、今日は展開が向かなかったようで。本番ではきっといいレースをしてくれますよ」と必死でなだめたという噂もちらほらと・・・。で、本番。見せ場すらなく15頭立ての13着でした(あっさりと)。でも、カナダ(当時、日本よりは高レベル)の2頭に先着したのですから・・・。そうか、アメリカ最強のジョンヘンリーもインド最強のオウンオピニオンも13着。きっと最強馬の定位置だったんですね(笑)。とまぁ、それは冗談としてオウンオピニオンは散々な成績でしたが、きっと彼は、寒さで震えて競馬どころではなかったんでしょう。東京の11月の平均気温は12.6℃。インドはというと、北の方にあるニューデリーでも20.6℃、ムンバイに至っては28.0℃もあるのですから、戸惑っていたことは事実でしょうね。ん? 馬って元々暑さに弱いから、日本の方が合っているのかな? でも、やっぱりずっと暑いところで育ってきていきなり寒いところに連れて来られれば、やっぱり戸惑うでしょうね。そうそう、この馬、裸足で(蹄鉄を打たずに)ジャパンカップを走った馬としても知られています。

 それ以来インドからの参戦はありません。インドと言えばかつて、日本で32戦20勝の成績を引っ提げ渡米し、11戦目にワシントンバースデーハンデキャップを勝ったハクチカラ(顕彰馬)が種牡馬として寄贈された先。ハクチカラはインドのクラシックレースで多くの勝ち馬を出し、昭和54年、インドの土となったのですが、そのハクチカラの血を引く馬で、もう一度挑戦してきたら応援するのになぁ。まぁ、インド競馬をレベルアップし、堂々と参戦できるようにするのが先決でしょうが。







前代未聞の大事故を起こした張本人(馬)<ゼノンブイ>

 競馬を見ていて、馬が故障し、苦しんでいる姿は一番見たくないシーンです。障害戦では馬の転倒など頻繁に起こりますが、起き上がってまた走り出すとほっとしますね。それがたとえ自分の買っていた馬で、その時点で馬券は外れてしまっても、「ああ、無事だったんだ、良かった良かった」ってね。騎手は心配じゃないの? まぁまぁ、障害飛越に失敗した場合は、騎手も落ちることは分かってますから、大事に至らないことが多いんです。何でもないのに気まずいから動かずにいたりとかもするそうですね。でも突然のアクシデント(馬の骨折など)で前崩れになると、受け身が取れずに大怪我をしてしまうこともあるので、やはり騎手というのは命がけですね。

 でもたまに、無事だったはずの馬が、その直後に命を落とすこともあるんです。

 何時だったかな? 今は無き東京障害特別だったと思いますが、落馬した馬がカラ馬のまま走り続け、コースを逸走してしまいました。そのまま走らせておくと危険ですから、係員が捕まえに行くのですが、その馬は何度もそれを逃れ、走り続けた挙げ句、1コーナー付近にあったスタートゲートに突っ込み、あえなく予後不良。1コーナー辺りでどたばたしていたのですが、遠くからではよく分からず、結局次の日のスポーツ紙で知りましたけどね。でも、長い歴史の中では、もっととんでもない事故を起こした馬がいました。

 ゼノンブイは昭和51年2月15日の東京競馬第5レースで、前代未聞の大事故を起こしたのです。第3コーナー近くの第3障害で、ゼノンブイは落馬しました。でも馬は無事で、再び立ち上がり、走り始めたのです。そこまでは良かったのですが、カラ馬となったゼノンブイは、障害芝コースから外側のダートコースへと逸走してしまいました。他の7頭の騎手は、それに気付かず、障害芝コースをもう1周してきたのです。ゼノンブイはダートコースの第1コーナー辺りで止まり、ブラブラしていたのですが、丁度その頃、障害芝コースでは他の7頭が全ての障害をクリアし、直線に向かってスパートをかけていました。障害芝コースはスタンド前にも障害があり、ゴール板は置けませんから、障害競走は最後の直線を、芝コースかダートコースかのどちらかを走ることになります(障害専用コースを持たないローカル開催では、芝コースに可動式の障害を置いてレースを行います)。でも一般に芝を使うのは重賞や特別競走のみで、平場戦はほとんどダート。そう、残る7頭は、ダートコースを目指していたのです。と、その時、何を思ったのか、第1コーナー辺りにいたゼノンブイ号、突然第4コーナーへと向かって、全力でコースを逆走し始めてしまいました。最後の直線、7頭がゴールに向けて懸命に叩き合い、全力疾走している。と、その真っ正面から、ゼノンブイが全力疾走してきました。あり得ない事態の発生に、他の馬の騎手は大あわて。先頭を走っていたリバースポートの平井雄騎手、2番手ヤシマリュウの大江原哲騎手は、上手く身をよじり、何とか交わしました。しかし、その直後では、3頭並んでの叩き合いが演じられていたのでした。ゼノンブイは、その真ん中、アルブレヒト号目がけて突っ込みました。前の2頭が死角になって、見えていなかったのでしょう。突然目の前に現れた。しかも左右にはそれぞれ別の馬がいて逃げられない。如何に名手・星野忍をもってしても、交わすことなど不可能でした。ゼノンブイとアルブレヒトは、音を立てて激突。アルブレヒトは、頸椎を脱臼して即死。ゼノンブイも右の腸骨を骨折し、予後不良となってしまいました。

 こんな大事故、滅多に起こることではありません。でも、避けられなかったのでしょうか? 例えば自動車レースでは、青、黄、赤色の旗を振って指示を出しますよね。競馬場にも、コース脇に係員が待機しているわけですから(障害競走は特に)、危険が予測される事態が発生したら、係員に無線で指示を出し、何らかの方法で騎手に注意を促すことは出来ると思うのですが・・・。古い話ですから、もちろん私は現場を目撃したわけではないです。もし、こんな事故を目撃してしまったら、目を覆ってしまうでしょうね。そして、しばらくは競馬を見られなくなるかも。




あの日の幻想<スーパーオトメ>

 あたしはリエ、28才、女。この若さで高級輸入品販売業の女社長。年収3千万。言い寄ってくる男も星の数。あたしの若さと美貌、それと財力さえあれば、男なんてイチコロよ、おーっほっほっほ。もちろん、軽くあしらってやるけどね。

 やな女! ですって? そうよ、あたしはやな女。高慢ちきな自惚れ屋。でもね、そうでもなければこの生き馬の目を抜くような世界、対等に渡ってなんかいけないわよ。

 こんなあたしにだって、好きな人はいるわ。出入りの業者の営業マン、そう、普通のサラリーマンよ。言い寄ってくる気障ったらしい御曹司になんて興味ない。彼はお金持ちでもないし、見てくれも普通。だけど実直で細かいことにも気を配るし、何て言ってもあたしのわがままな要求にも嫌な顔一つせず、対応してくれる。そうかと思えば無理難題をふっかけると、毅然とした態度で断ってくる。今時骨のある男だわ。

 その彼が昨日、突然誘ってくれたわ。「田嶋社長、いえ、リエさん。ぼ、僕とドライブにでも行きませんか」ってね。あたしは内心嬉しかったわ。でも、素直じゃないんだよね。「それであたしを誘ってるつもり? あたしを誘うならもっとびしっとした格好で、ベンツのオープンカーにでも乗ってらっしゃい」そう答えてしまったわ。あ〜あ、何でそんな心にもない言葉が出ちゃうんだろう。

 好きな人に誘われても、素直になれないあたし。まぁ、言っちゃったものは仕方ない。気を紛らわすため、仕事を終えると夜通し走った。真っ赤なフェラーリ308GTB。今となっては旧車も旧車。手のかかるじゃじゃ馬娘だけど、あたしにはピッタリね。

 どれくらい走ったんだろう? もうとっくに陽は昇り、あたしは首都高の平和島ランプの辺りを疾走していた。するとあたしのインに、跳ね馬が並びかけてきたの。そいつ、あたしの方をチラッと見ると、すました顔で一気に加速して抜いていったわ。負けん気の強いあたしは、アクセルを目一杯踏み込んで追いかけて、そして並んだ。「あんたなんかに負けないわよ」と、跳ね馬に向かってつぶやいたわ。むかつく、あの跳ね馬・・・、跳ね馬・・・・・・・え〜っ! う、馬ぁ?????

 驚いたあたしは、ハンドル操作を誤ってフェンスに激突した。跳ね馬はあたしの方を振り返ると、「もっと素直になりなよ」と、言ったような気がした。そして薄れていく意識の中、空港西ランプへと消えていくのがかすかに見えた。

 あたしは病院のベッドの上で目を覚ました。そして、ベッドの傍らにはかの営業マン君が、椅子に座って眠っていた。あたしは丸二日、眠っていたらしい。そして、彼はずっと側にいてくれたみたい。さぞ疲れただろうね。でも、あたしの手、しっかりと握ってくれていたね。

 ありがとう。あたしみたいな可愛気のない女のこと、こんなに心配してくれて。退院したら、今度はあたしの方から誘ってみよう。そう、もっと自分の気持ちに素直になって。

 それにしてもあの跳ね馬は何だったの? よほど疲れていて幻を見たのかしら。

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 あはははは。ついつい悪のりしてしまいました。ごめんなさい。馬→跳ね馬→フェラーリ→お金持ちという連想から、こんなの書いちゃいました。

 おっと、このページは馬についてのコラム。全部ウソでは話になりませんよね。首都高の平和島ランプから空港西ランプまでの区間を激走した馬がいたということだけは事実でした。平成8年1月25日、一頭の馬が大井競馬厩舎地区の馬洗い場から脱走し、約1kmの逃走の後、あろう事か平和島ランプの坂を駆け上って首都高に乗り、悠々と”ドライブ”し、空港西ランプで下りたところを、通報により駆けつけた警官らによって取り押さえられました。その馬の名はスーパーオトメちゃん。4歳、デビュー前の箱入り娘でした。しかしまぁ、”リエさん”のように事故を起こしたという記録は無いですが、彼女に出くわしたドライバー達は、さぞ驚いたことでしょうね。でも、新聞の一面を賑わせた大井の馬なんて、ハイセイコー以来? そのため、2月3日のデビュー戦(第1レース、未出走戦)は、ファンやマスコミでごった返す始末。パドックも人、人、人。そもそも大井競馬の第1レースなんて、ナイター競馬ならともかく、そうでなければパドックに人なんか数えるほどしかいない。経営が苦しい地方競馬にとっては、突発的な事件とはいえ、宣伝効果はあったのでしょうね。そのスーパーオトメちゃん、デビュー戦で11頭立ての1番人気に推されました。でも結果は5着。そして、故障とかしたわけではないのですが、混乱を避けるため、3ヶ月の間、放牧に出されました。帰厩して第2戦目、この時もまた1番人気(でも7着)。その後4戦は2番人気(4,4,8,2着)と、常に人気が先行しておりました。スーパーオトメちゃんが初勝利をあげたのは、あの激走から一年半も経った平成9年7月6日のC3一般戦。でも、勝ったのはそれっきりで、その年の10月、通算21戦1勝2着1回という成績を残し、馬場を去りました。その彼女も故郷の牧場に帰り、良きお母さんになったそうです。でも彼女は通行料金を払ったのでしょうか? いや、それ以前に馬は道交法上は軽車両だから、自動車専用道路は走れない。そんなことはなく、軽車両になるのは人が乗った場合で、そうでなければただの紛れ込んだ動物扱い? まぁ、どうでもいいか。

 ところで、単勝馬券っていうのは買った馬の名前が馬券に記録されるのですが、スーパーオトメと記録された単勝馬券、今でも肌身離さず持っている人が多くいるそうです。何故って? 交通安全のお守りなんだって。首都高を馬が走って無傷で戻ってくるなんて、奇跡に近いものね。そういう私も2003/11/30、京都競馬第2レース(サラ2歳未勝利)の3番の単勝、100円だけ買ってしまいました。その馬の名は・・・スゴウデノバケンシ。そう、「凄腕の馬券師」です。これを持っていれば、私はきっと凄腕の馬券師となり、予想が的中しまくることでしょう・・・って、やっぱ卑しいなぁ(^^;)

文中の年齢は当時の表記によります。




涙の特急列車<キーストン>

 キーストンは快速馬・ソロナウェーの仔として、昭和37年に生まれました。この名前はペンシルベニア鉄道の特急列車・Keystone号にちなんだものですが、彼はその名に恥じない走りっぷりで、3歳時は5戦全勝、しかも全てブッチギリ。明け4歳になっても弥生賞(当時1600m)を圧勝し、6連勝。しかし、続くスプリングSはダイコーターにゴール前でかわされ、皐月賞は14着と、生涯唯一の大敗を喫しました。距離の壁? ともささやかれ始め、ダービーはダメじゃないか? との憶測が流れた。でも気を取り直し、芝1800mのオープン戦を制して臨んだ第32回東京優駿(日本ダービー)。当日はドロドロの不良馬場で、人気はダイコーターの一本かぶり(1.2倍)。不良馬場は距離以上に快速馬には不利であろうと皆思ったのでしょう。キーストンは2番人気でありながら、オッズはかなりの高配当でした。そしてレース。キーストンは山本騎手の手綱に応えて大逃げを打ち、差はグングン開いていく。飛ばし過ぎでゴール前失速。誰もがそれを予想したが、キーストンは懸命に持ちこたえ、1馬身3/4差で見事栄光のダービー馬となりました。秋は菊花賞の前哨戦・京都杯を勝ちますが、菊花賞はさすがに距離がこたえたのか、ダービーで切って捨てたダイコーターの2着に敗れました。そしてその頃から、脚部不安に悩まされるようになり、主戦の山本騎手はいつもそのことを気にかけていました。

 翌年の天皇賞で5着に敗れた彼は、脚の具合が思わしくなく、1年半もの休養に入ります。6歳で復帰し、オープンの平場を4戦し、2、1、1、1着。次いで阪神の競馬60周年記念競走を制し、暮れの阪神大賞典に駒を進めます。そして・・・

 昭和42年暮れ、阪神大賞典(3100m)。キーストンは山本正司騎手を背に、気持ち良さそうにターフを疾駆していました。距離に不安があれど、5頭立てということもあって、誰もが快速キーストンの勝利を確信してました。何しろそれまでの戦績が24戦18勝、2着3回ですから、無理もありません。が、4コーナーを回ったその時、悪夢が訪れました。突然、キーストンの小柄な馬体が崩れ落ち、山本騎手はターフに叩き付けられ、脳震とうを起こして失神状態。キーストンは左前足の完全脱臼で、もはや致命傷。普通なら立ち上がることすらもはやままならない。しかし、彼は残された三本の足で懸命に立ち上がると、左前足をブラブラさせながらも気絶した相棒に向かって歩き始めました。激痛に耐えながら。「もう歩かないでいいよ」と、誰もが心の中でつぶやいた。レースはもうとっくに終わっていましたが、どの馬が勝ったかなんてもうどうでも良い。実況アナウンサーは涙声でキーストンを追いました。キーストンはやっとの思いで山本騎手の所に辿り着くと、心配げに鼻面を摺り寄せました。ようやく気が付いた山本騎手は、ボンヤリした視野の中で大きな悲しそうな愛馬の目を見て、その鼻面を抱いて何度も撫で、駆けつけた厩務員に手綱を渡すと、また意識を失いました。後で愛馬の死を聞いた山本騎手は大泣きに泣き、そして精神的に大きなダメージを受けた彼は、その後しばらく馬に乗れなくなってしまったそうです。山本正司氏はその後調教師になりましたが、キーストンの話が出ると涙が止まらなくなったそうです。

文中の年齢は当時の表記によります。




ただ一頭のチャレンジャー<フジノオー>
稀代の天才ジャンパー<グランドマーチス>
天皇賞に出走した未勝利馬<バローネターフ>

 新人騎手が将来の目標を聞かれ、「中山大障害を勝ちたい」などと言ったら、馬鹿にされてしまうでしょうね。現在の障害レースは馬にとっては落ちこぼれの救済で、騎手にとっても、いわゆる一流騎手は、早々と障害免許の更新を捨ててしまいます。ところがかつては、「花の中山大障害」と言われ、騎手にとってもダービーや天皇賞と並ぶ、大きな目標でありました。特に高さ1.6mの大竹柵障害と大土塁障害は圧巻で、高低差5.3mもあるバンケットでスタミナを削られた直後に飛ぶという、難易度の高い障害です。現在では春の「中山グランドジャンプ」(国際招待)と秋の「中山大障害」に別れましたが、かつては春秋同条件(距離4,100m)で行われていました。

 その中山大障害を4勝以上した馬は全部で3頭。まず4勝馬ですが、フジノオーとグランドマーチスの2頭。そして、最多の5勝を誇る馬がバローネターフ。今回はこの3頭をまとめて紹介します。障害馬として殿堂入りしている(顕彰馬)のはグランドマーチスただ一頭ですが、それは何故か? グランドマーチスがフジノオーやバローネターフに比べ、何かが勝っていたのか? じっくり読み比べて下さい。

 フジノオーは昭和34年生まれ。4歳暮れまでは15回走って1勝と、大した成績を残せなかったのですが、父ブリッカバックが京都大障害馬:シルバーオーをはじめとする優秀な障害馬を出したこと、母ベルノートがオーストラリア産独特の頑健さとスタミナを持っていたことから、障害に向くと考え、転向しました。最初のうちは勝てなかったのですが、徐々に障害に慣れ、翌年1月に障害初勝利をあげると、3月には2勝目、4月には3勝目をあげ、晴れて中山大障害に出走と相成りました。ところがフジノオーはまだ障害馬として完成してはおらず、また、中沢騎手が不慣れで大舞台にすっかりあがってしまったため、3つ目の障害で落馬し、競走中止となってしまいました。ただ、カラ馬のままその後の全障害を飛越してきたことから、素質の片鱗は見せておりました(多くの場合、カラ馬は大障害の前で止まってしまいます)。その後、平地を2戦し、障害復帰戦3着で臨んだ秋の中山大障害。この時は名手・横山富雄騎手を背に見事優勝し、これが快進撃の幕開けとなったのです。

 翌年、6歳春の中山大障害を61kgを背負って快勝すると、強い障害馬の宿命ともいえる、斤量との戦いが始まります。しかし彼はそれをものともせず、64kgを背負い、秋の中山大障害も制し、遂に前人(馬)未踏の中山大障害3連覇を達成したのです。当面の目標はクリアし、収得賞金も当時のベストテン入りしたフジノオーはここで引退し、その後は・・・と、話題になったそうです。しかし関係者は大方の予測を覆し、さらなる上・未知の領域を目指したのでした。7歳の春、67kgもの酷量を背負って(当時の斤量規定は私も知りません)の、中山大障害4連覇への挑戦です。フジノオーが67kgならチャンスはあるとばかりに、精鋭7頭が挑戦してきました。さすがに今回はピンチ。でも、思わぬ援護射撃がありました。フジノオーの全弟・フジノチカラがハイペースでレースを引っ張り、後方待機していたフジノオーが後続を大差でぶっちぎり、フジノチカラも2着に入るという、兄弟ワンツーフィニッシュを演じたのでした。実はフジノチカラ、最初からそのつもりで出走してきたのだそうです(これは立派な戦術です)。

 ともあれ、中山大障害4連覇という偉業を達成したフジノオーは、さらに5連覇を目指すのですが、さすがに68kgが堪えたのと、フジノチカラ落馬の煽りを受けたのも災いし、2着に甘んじました。その後障害を2戦していずれも2着。ここでフジノオーは国内での障害成績40戦22勝という素晴らしい成績を引っ提げ、思いも寄らぬ行動に出ました。障害の最高峰・グランドナショナルへの挑戦です。グランドナショナルは英国リヴァプール郊外のエイントリー競馬場で行われる障害レースで、障害の数は30(しかも中山の大障害など比べものにならないくらい高い)、距離7,220mの過酷なレース。しかも障害の前後で高さが違ったりとか、ある障害は飛越した直後、直角に曲がらなくてはいけないというご無体なレースで、数十頭の出走馬のうち完走できるのはわずか数頭、完走するとはいってもゴール前はほとんど虫の息で、ヨタヨタになった馬にさらに鞭を入れてやっとこさゴールするという凄まじさ。毎年落馬により死亡する馬が出るなど、動物愛護団体から猛抗議を受けるレースです。しかし一方では、競馬発祥の地・英国で最も人気のあるレース(エプソムダービーなど比べものにならないほど)で、グランドナショナル当日は、着飾った紳士・淑女で満員となり、一大社交場としても知られております。

 時にフジノオーは8歳。障害馬としては脂ののりきった時期。遠征費用は個人負担、主戦の横山騎手が同行できないなどの不安要素もありましたが、ウォールウィン調教師の元、調教に励みました。しかし、レースにはたった1度しか出走できず、それが元で大いなるハンデキャップを背負うことになりました。それは、76.2kgという、信じられない斤量です。これはグランドナショナルの規定で、最低3回は障害レースに出走しないと、この斤量が課せられてしまうのです。それでもフジノオーは、挑戦を敢行。出走頭数は47頭。見栄えの悪い小さな馬体から、地元記者からは「豆挑戦者」と呼ばれました。いよいよスタート。フジノオーはいくつもの難所をクリアし、必死でついていきましたが、小さな体にこの斤量は堪えたのでしょう。第15障害で飛越を拒否し、競走を中止してしまいました。残念な結果ではありましたが、挑戦したというだけでも、障害競走のレベルの低い日本の馬としては大記録と言ってよいでしょう。後にも先にも、グランドナ ショナルに挑戦した日本馬は、フジノオーただ一頭なのです。しかも障害のほぼ半分クリアしたのですから、よく走った方だと思います。

 フジノオーはその後フランスに転戦し、レーヌ賞、クリスチャン・ド・レルミット賞という、2つのレースで勝利をあげました。フランスも、ロンシャン競馬場で大レースがない日は障害専門のオートゥイユ競馬場の方が人が集まるというほど障害競走の人気が高く、当然日本よりもはるかにレベルが高い。その中で2勝を挙げたのですから、やはり大した馬だったのですね。

 次はグランドマーチス。昭和44年生まれで、あのハイセイコーよりも一つ年上です。彼の平地成績は24戦4勝。昭和48年(5歳)1月、平地最後の競走となった万葉ステークス(700万下、京都、3000m)を勝つほどの馬で、しかも主戦はあの福永洋一騎手。そう、天才ジョッキーの名を欲しいままにした名ジョッキーで、現在活躍中の福永祐一騎手のお父さんです。福永洋一騎手のすごさはただ勝鞍が多かっただけでなく、馬場そうじ(見せ場すらなく終始後方をついて回ってくること)が関の山といった馬を、ビシバシ掲示板に載せてしまう(5着以内に持ってくる)ような人でした。「福永さんに乗ってもらって走らなければどうしようもない」と、関係者を達観させたほどでした。その福永洋一騎手が主戦を努めていたのですから、それだけ期待されていた馬ですし、その後も順調に力をつけていけば、天皇賞はともかく、長距離の重賞でも勝てたかもしれません。*最初に記事を書いた時に万葉ステークスを準オープンと記していましたが、調べた結果、グランドマーチスが勝った年の万葉ステークスは700万下、現在の2勝クラスに該当すると思われます。訂正してお詫びいたします。そのグランドマーチスが障害に転向したのは意外なことでしたし、何故そうしたかも定かではありません。一時期、オープンで頭打ちになった馬が大挙障害に転向し、平地の脚を武器に、ブイブイいわしてましたね。彼らは低くて危なっかしい飛越で、現に落馬することもしばしば。しかし、何とか全障害をクリアできれば、直線でオープン馬の脚を炸裂させ、他馬をゴボウ抜きして優勝するという、下品なレースを繰り返しておりましたが、グランドマーチスをそんな馬たちと一緒にしてもらったら困ります。順調にいけばオープン馬になれるだけの素質があった馬ですが、それ以上にすごかったのが飛越のセンスでした。障害練習の際に寺井千万基騎手が落馬したことがあったのですが、それはグランドマーチスが飛越に失敗したのではなく、あまりのダイナミックな飛越に、騎手免許を取ったばかりの寺井騎手がついていけなかったのだそうです。

 さて、グランドマーチスの初障害は、寺井騎手を背に2着、そして2戦目で1着。結局その年は障害13戦3勝、中京障害ステークスを制するなど、障害初年度としては十分すぎるほどの活躍でした。翌昭和49年、6歳になった彼は年頭から3連勝し、続く2つは取りこぼしたものの、大舞台・中山大障害に出走してきました。8頭立ての1番人気となった彼は、既に何度もコンビを組んでいる寺井騎手を背に気持ちよく逃げて、そのままゴールイン。初挑戦にして障害界最高の栄誉を手にしたのでした。その後は京都大障害(春)、東京障害特別(春)、阪神障害ステークス(秋)といった重賞に出走して勝ちきれずにいましたが、京都大障害(秋)で、西の大レースを制し、オープンを一叩き(1着)した後、中山大障害(秋)に臨みます。むろん1番人気に推された彼は、スイスイと逃げましたが、前半のペースが堪えたのか、直線一杯となり、ダリップに詰め寄られます。でも何とか1馬身半差抑えて2連覇。この時のタイムは4'40"2というレコードタイムでした。

 翌昭和50年(7歳)は、グランドマーチスが最も充実した年になりました。年明けから3連勝し、万全の体制で春の中山大障害に臨んだ彼に恐れをなし、挑戦したのはたったの4頭。そして下馬評通り、サクラオンリーを6馬身ちぎって、堂々の3連覇。続く京都大障害(春)も制し、こちらも連覇。もはや向かうところ敵なしでした。休養を挟んで秋。緒戦は72kgもの斤量が課せられたこともあり、振るいませんでしたが、京都大障害(秋)を65kgを背負いながら、しかも不良馬場の中、直線で鋭く追い込み、わずか頭差ながら制し、3連覇。そしていよいよ中山大障害(秋)。そう、偉大なフジノオーに並ぶ4連覇がかかったレースです。このレースは、障害競走の見本のようなレースでした。わずか6頭立てとはいえ、落馬は1頭も無し。最後は6頭がばらけた入線で、迫力には欠けましたが、その順位はまさに飛越の上手い順。障害競走でいかに飛越が重要であるかを見せつけたかのようでした(あっ、私はリアルタイムでは見てませんよ)。もちろん1着はグランドマーチスで、見事4連覇達成。しかも史上初の3億円馬というおまけ付き。そしてこの時の2着が、後に障害界を制圧するバローネターフでした。

 さらに翌昭和51年(8歳)、グランドマーチスは現役を続行し、中山大障害5連覇、京都大障害4連覇へと挑みます。しかし、待ち受けていたのは66kgという斤量でした。実はグランドマーチスが勝った中山大障害は、斤量58kgで、過去の勝ち馬に2kgの負担増(つまり60kg)という規定でしたが、グランドマーチスがあまりにも強すぎたため、1勝につき2kg増という規定に変更され、すでに4勝している彼は8kg増の66kgとなったのでした。それでも懸命に走ったグランドマーチス。でも、結果は非情なもので、2着に終わってしまいました(この時バローネターフは3着)。続く京都大障害も全く精彩を欠いての10着惨敗。しかも骨折が判明し、障害界の王者として君臨した彼も、遂に引退となってしまいました。

 障害競走通算39戦19勝、その間落馬は一度たりともなく、中山大障害4連覇、京都大障害3連覇という偉業を達成したグランドマーチスの飛越の巧さは、まさに特筆ものでした。そして、彼のライバルもまた、バローネターフ、サクラオンリー、ブゼンサカエといった、素晴らしい飛越巧者揃いでした。あ〜あ、私もそういう障害レースを生で見てみたいな。

 さて、グランドマーチスはその後、種牡馬になります。とは言っても乗馬専用のですけどね。昭和59年に16歳で亡くなりましたが、その間、昔を思い出したのか、時々牧場の柵を跳び越えて、世話係の人を困らせていたそうです。

 さて、最後にバローネターフ。結局グランドマーチスとは中山大障害で2回顔を合わせ、いずれもグランドマーチスが先着しましたが、その後、障害界を牛耳ることになります。グランドマーチスに先着できなかったとはいっても、当時の完成度を考えれば、一概にどちらが強いかは言えないですね。

 バローネターフは父:バウンティアス、母:キクホマレという血統で、最初は大した期待もされませんでした。そしてその期待通り?、新馬・未勝利戦を計10回走り、2着と5着がそれぞれ1回、あとは掲示板にも載らない体たらくぶりでした。しかし、彼の兄:インターヒカリ(父:ガーサント)が障害で14勝もあげていたことから、4歳の夏、早々と障害へと転向することになりました。すると彼は、天性のジャンプ力と闘志で、難なく障害をクリアし、初戦の未勝利戦を突破。以後300万下を3・2・1着、オープン戦で2・1・1着と順調に勝ち進み、花の中山大障害(秋)へと駒を進めました。が、6頭立てのこのレース、一番人気はあのグランドマーチス。バローネターフは懸命に走りましたが、大先輩・グランドマーチスの壁はあまりにも厚く、2着に甘んじたのでした。

 そこで意気消沈してしまったのか、5歳時は不調で1勝もできず、中山大障害も3着・6着という結果でした。しかし、6歳時は人が、いや、馬が変わったように勝ちまくり、中山大障害を春秋ともに大差のブッチギリ勝ちを演じ、障害界の頂点に君臨しました。翌年、7歳時は、春の中山大障害でファンドリナイロに不覚をとりますが、秋は大差で圧勝し、見事中山大障害3勝目を飾ります。

 そして8歳時、春は予定していたオープン戦を取り消し、ぶっつけ本番で中山大障害に臨みました。障害レースというのは平地以上に休みボケがひどく、一流馬でもコロッと負けてしまうことがよくあります。でもバローネターフはそんなことは微塵も感じさせず、鬼神の如き走りっぷりを披露し、64kgを背負いながら、4'38"5という信じられないレコードタイムを叩きだし、ブッチギリの大圧勝劇を演じたのでした。これで4勝目。そして秋はいよいよ5勝目に挑戦。しかしそこで問題が発生しました。普通ならば東京障害特別なり、障害ステークスなりを使ってから本番に臨むのですが、あろう事か彼は、勝ちすぎたが故に70kg以上を背負わされることが確実となってしまいました。関係者は思案の末、何と本番前の一叩きに選んだレースが、第80回天皇賞(昭和54年秋)だったのです。何故って、天皇賞なら定量の58kgで出走できるし、距離も3,200mと長く、ペースも落ち着くので、障害が無いとはいえ、足馴らしとしてはもってこいのレースなのです。もちろん勝てる訳がありません。どん尻人気の彼は、スリージャイアンツから3秒以上も離された11着。でも、メジロイーグル、バンブトンコールの2頭には先着しました。長い天皇賞の歴史でも、平地未勝利馬が出走したのはこれっきり。キングスポイントやポレールも天皇賞に出走しましたが、彼らはともに平地1勝馬でした。栄光の天皇賞に未勝利馬が出て良いのか? と思われるかもしれませんが、平地戦の出走条件には障害戦の成績も加味される(現在では完全に分離されました)ので、彼は堂々の13勝馬で、中山大障害を4勝もしていれば、賞金も十分に足りているという訳。しかしまぁ、天皇賞といえば、どの馬も最大の目標として臨んでくる大レース。それを本番前の一叩きと洒落込んでいるのですから、考えようによってはとてつもない大物ですね。

 さて、そうまでして臨んだ中山大障害・秋。彼の前に立ちはだかったのは66kgという重い負担重量。この重量はかつて、グランドマーチスの中山大障害5連覇を阻んだ重量でした。ところがそのレースは実に呆気ないものでした。スタートから好位を進んだ彼は、向こう上面で人気のテキサスワイポンを捕らえ、直線では66kgを忘れさせるほどの末脚を炸裂させ、テキサスワイポンに4馬身の差を付けて完勝。ついに5勝目達成です。4歳の秋から9回連続で中山大障害に出走し、5勝。この大記録はフジノオーやグランドマーチスの残した成績に一歩も引けをとらない立派なものです。っていうか、今の障害馬に「9回連続で出走せよ」(結果は問わず)と言っても、はたして可能かどうか、疑問に思います。「毎回完走せよ」という条件も付けたら、ほぼ不可能に近いでしょうね。障害29戦で落馬はゼロというのも、この馬の障害馬としての優れた資質を証明していますね。

 さて最後に謎解きです。フジノオー、グランドマーチス、バローネターフという、いずれ劣らぬ障害の名馬3頭の内、何故顕彰馬としてグランドマーチスのみが称えられているのか? 答えは簡単。障害馬としてこの3頭が挙がったのですが、あらかじめ決められた障害馬の枠は一頭だけ。結局一番知名度が高かったグランドマーチスが選ばれただけのこと。私としてはフジノオーとバローネターフも同格に扱って頂きたいのですが、でも、顕彰馬に選ばれていないからといって、彼らの偉大な功績が忘れ去られることはないでしょう。もう10年以上前ですが、障害競走を改革し、よりハイレベルな・・・なんて言っていた割に、東京の襷コースを廃止して、東京障害特別をどう考えても以前よりも楽なレースにしてしまったりで、障害競走のレベルは低下の一途を辿っています。本当に改革する気があるのだろうか? フジノオー、グランドマーチス、バローネターフは、天国で今の障害界を、どんな気持ちで見ているのでしょうか? 彼らがいた時代の素晴らしい障害競走を見たいと思っている人間は、私だけではないはずです。

文中の年齢は当時の表記によります。




天馬<トウショウボーイ>
悲運の名馬<テンポイント>
緑の刺客<グリーングラス>

 昭和51年から52年にかけて、競馬界を盛り上げた3強TTG。トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスの3頭ですね。一応血統的にいうと、トウショウボーイ(父テスコボーイ)は短中距離型、テンポイント(父コントライト)は中距離型、そしてグリーングラス(父インターメゾ)は筋金入りのステイヤー。そう、3強とは言っても、ライバル関係にあるのはトウショウボーイとテンポイントで、距離適性の異なるグリーングラスは、同じ土俵では比較できません。

 テスコボーイ×ソシアルバターフライという、華麗な血統を持ったトウショウボーイ、セントレジャー勝ち馬・インターメゾ×福島大賞典と七夕賞の勝ち馬・ダーリングヒメという、晩成ながらも期待値の高い血統であったグリーングラスに対し、テンポイントは本来、この世に存在しないはずの馬でした。というのも、テンポイントの祖母・クモワカは、1952年、伝染性貧血症と診断され、薬殺処分を命じられたのです。テンポイントの母・ワカクモ(その母:クモワカ)は1963年生まれ。つまりテンポイントは死んだはずの馬の娘の息子なのです。とは言っても、本当に死んでいたら子が産める訳がありません。クモワカの伝染性貧血症は誤診であると主張していた関係者は、殺したと報告しておいて、実は北の果ての牧場に亡命させ、11年にも及ぶ裁判の結果、1963年、ついにクモワカの仔の登録を認めさせ、その年の産駒がワカクモだったのです。ワカクモは母・クモワカが2着に敗れた桜花賞を制し、その無念を晴らした孝行娘だったのでした。そして、その血を引くのが名馬・テンポイントなのです。

 さて、この3頭、最も早くデビューしたのはテンポイント。昭和50年の8月、函館の新馬戦で10馬身ちぎってのレコード勝ち。もみじ賞、そして阪神3歳ステークスもぶっちぎりの大楽勝。当時は今とは逆で、超が付くほど東高西低の競馬界。それ故、関西の関係者やファンの、テンポイントによせる期待には凄まじいものがありました。

 明けて4歳、テンポイントが東京4歳ステークス、スプリングステークスと連勝していた頃、生涯のライバルも、着実にクラシックロードに駒を進めてきました。トウショウボーイは1月の新馬戦を制し、つくし賞、れんげ賞と連勝し、皐月賞に臨んだのです。ちなみにトウショウボーイは、初戦の新馬戦で、後の3強の一頭・グリーングラスと相まみえ、また、シービークインとの運命の出会い(後述)もこの時でした。グリーングラスは2番人気で4着でしたが、奥手の彼としてはまずまずのデビューだったと思います。

 さて、皐月賞。表街道から来たテンポイントと、裏街道から来たトウショウボーイ。結果を先に申しますと、勝ったのはトウショウボーイで、テンポイントは5馬身差の2着でした。ただ、その明暗を分けた意外な理由は、厩務員のスト。その影響で皐月賞の開催が1週間遅れ、既に調教を終え、目一杯に仕上がっていたテンポイントは、一週順延が災いし、皐月賞当日、体調を崩していました。一方のトウショウボーイは余力を残した軽めの仕上げが幸いし、当日は万全の体制。もちろんこれが無くてもテンポイントが勝てたかどうかは不明。それほどトウショウボーイは強かったのです。テンポイントは不運でしたが、それほど馬の体調管理は難しく、1週間ずれただけで、ガタガタになってしまうこともあるんです。逆に言えば、除外覚悟でクラシックに抽選出走してくる馬は、それ相応の期待がかけられているということですね。時々大穴をあけたりしますので、要チェックです。

 その頃グリーングラスは、3戦目の未勝利戦で初勝利をあげ、ダービー出走を目論み、1勝馬の身でNHK杯に挑戦しますが、あえなく惨敗(12着)。ダービーへの出走はかないませんでした。テンポイントとトウショウボーイは当然のごとくダービーに臨みます。しかし、トウショウボーイはクライムカイザーの後塵を拝し2着、テンポイントは骨折もあり、7着と惨敗しました。クライムカイザーはその後、故障がちで、よい成績は収められなかったのですが、間違いなく強い馬でした。

 ダービーの後、テンポイントは治療に専念し、復帰は秋の京都大賞典。古馬との対戦、故障明けということもあり、結果は3着。でも、「テンポイント3着、今日はこれで十分だ」という杉本アナの名実況の通り、確かな手応えをつかみ、菊花賞へと向かいます。トウショウボーイは札幌記念で2着した後休養に入り、秋は神戸新聞杯、京都新聞杯を連勝し、菊花賞に臨みます。そしてもう一頭のグリーングラスはというと、中山の鹿島灘特別でようやく3勝目を上げ、そして賞金的に出走できるかどうかわからない菊花賞に登録され、運良く出走できることになりました。

 そしてその菊花賞。1番人気はトウショウボーイ、2番人気はクライムカイザーで、この2頭が単枠指定(*)。テンポイントは離れた3番人気で、グリーングラスは21頭立ての12番人気。まあ、グリーングラスは21頭中、実績は一番下。長距離向きの血統と勢いが買われ、それでも12番人気といったところでしょうか。で、レースはトウショウボーイとテンポイントはともに先行集団につき、淡々と流れ、最後の直線でテンポイントがトウショウボーイに並びかけ、交わす。「それ行けテンポイント! 鞭など要らぬ! 押せ!」という、またしても杉本アナの名調子。誰もがそのまま決まると思ったが、最内を突いてスルスルと上がってくる緑のマスク、そう、グリーングラスがついにその素質を開花させ、両馬をねじ伏せたのでした。ここにTTG伝説の誕生と相成るわけですね。ちなみに「鞭など要らぬ」というくだりは、テンポイントの勝利を確信したものではなく、騎手が外にヨレたテンポイントに鞭を入れたため、咄嗟に出た言葉だそうです。さて、次の舞台は有馬記念ですが、グリーングラスはそこまで使い詰め。翌年の天皇賞を目指し、休養に入ります。その有馬記念はトウショウボーイ1着、テンポイント2着という結果でした。血統的には早熟気味で、距離も必ずしも合っていないトウショウボーイですが、それだけに彼の強さが際だったレースで、一方のテンポイントは、ついに大きなところは取れずじまいで、悔しさの残る4歳時だったと言えましょう。この年の年度代表馬はもちろんトウショウボーイです。

 年明けて5歳。グリーングラスはAJC杯を勝ち、目黒記念2着で天皇賞へと向かいます。テンポイントは京都記念、鳴尾記念を連勝し、天皇賞へ。トウショウボーイはというと、春は休養し、宝塚記念へと向かいました。いよいよ天皇賞、1番人気はテンポイント。やや重の京都、グリーングラス、ホクトボーイ、クラウンピラードらを抑えて真っ先にゴールインしたのはテンポイント。そう、彼はこの時、初めて大レースの勝ち馬となり、勝利の美酒に酔いました。グリーングラスは4着。続く宝塚記念ではトウショウボーイが復帰し、菊花賞以来のTTGそろい踏み。その年の宝塚記念はたったの6頭立てでしたが、TTGの他はダービー馬クライムカイザー、天皇賞馬アイフル、そして後の天皇賞馬ホクトボーイという史上最強の超豪華メンバー。それを制したのはやはりトウショウボーイ、次いでテンポイント、グリーングラスの順でした。またしてもトウショウボーイに敗れたテンポイント。トウショウボーイは憎らしいほど強かった。

 その後、トウショウボーイは高松宮杯を勝った後休養に入り、復帰後オープン戦を一叩きして、天皇賞に向かいます。グリーングラスは休養後、日本経済賞をレコード圧勝し、やはり天皇賞へ。そしてテンポイントはというと、天皇賞にはもう出走できないため、休養後は京都大賞典からオープン戦を経て、有馬記念へと向かいました。何故テンポイントは天皇賞に出走できないのか? そう、当時の天皇賞は勝ち抜き制で、一度勝った馬は出走できなかったのです。そして秋の天皇賞はグリーングラスの得意な舞台(当時は秋も3200m)。しかし、互いに意識しすぎたか、グリーングラスとトウショウボーイは向こう正面あたりから競り合ってしまい、直線で力尽き、5着、7着と惨敗するという結果。この時勝ったのがホクトボーイでした。

 さて、その年の年末、TTG3度目、そして最後の揃い踏み。トウショウボーイは有馬記念を最後に引退することが決まってました。レースはトウショウボーイとテンポイント、2頭のマッチレースよろしく、逃げるトウショウボーイに競りかけるテンポイント。一歩間違えれば共倒れになる展開で2頭は走り続け、死闘の末テンポイントが競り勝ち、トウショウボーイは2着。3着のグリーングラスは、この時は脇役でしかありませんでした。このレースはずっと後になって中央競馬会のメモリアルホール(東京競馬場内)で見ましたが、生で見たら、その感動はどれほどのものだったでしょうか。それほど素晴らしい名レースでした。遂に宿敵・トウショウボーイを下したテンポイント。そして、年度代表馬の栄冠にも輝きました。ですが、その誇らしげな姿に、その一月後の悲劇を誰が予想したでしょうか。

 明け6歳のテンポイント。宿敵は引退し、もはや国内に敵はいない。目指すはPrix de L'Arc de Triomphe(凱旋門賞)。凱旋門賞は秋のレースですが、早めに渡欧し、あちらで調整する方が得策。テンポイントはお別れの挨拶と壮行の意味を込め、1978年1月22日の日経新春杯に出走してきました。小雪の舞い散る淀のターフ、斤量は何と66.5kg。もしここでレースを使うのであれば、普通ならAJC杯を使うところ。でもテンポイントは関西馬。京都での壮行レースは当然なのですが・・・。

 誰もが先頭でゴールに飛び込んでくるテンポイントの姿を待ちわびていた。しかし、彼は来なかった。彼は3コーナーを回ったあたりで止まっている。鹿戸騎手も下馬している。山田厩務員が全速力で駆けつける。スタンドで観戦していた全員が、今何が起こっているのか、いや、今自分が何処で何をしているのかさえ分からない、そんな状況でした。

 「テンポイント故障発生」

無情にも響く場内アナウンスの声。

 「ワシらが、外国行く前に、もう一回見たい言うたんがあかんかったんや」

そんな自責の念とも言える言葉が、飛び交っていた。

 左後脚複雑骨折。本来ならば安楽死のところ、関係者、ファンの声が強く、せめて命だけはと、最高の医師団による手術が施され、手術は成功しました。しかし・・・

 サラブレッドは、3本の脚では自らの体重を支えることができません。ですが、横たわることもままなりません。最終手段として500キロもあった体重を380キロにまで落とし、上からベルトでつるし、懸命に介護しました。頑張ってくれ! 生きてくれ! 関係者もファンも、思いは一緒であった。だが期待もむなしく、一番恐れていた蹄葉炎(*)を発症。しかもその進行は止められない。こうなってしまってはもはや、楽にしてあげるしかないのです。かわいそうですが、もはや他に選択肢は無いのです。それほどまでに蹄葉炎というのは恐ろしい病気なのです。

 圧倒的な強さを誇り、種牡馬として期待され、引退したトウショウボーイと、海外遠征を前にした壮行レースでターフに散ったテンポイント。明暗が分かれてしまったライバルですが、その壮絶な死闘は、忘れ去られることなく、今後も語り継がれることでしょう。

 さて、その後ですが、トウショウボーイはデビュー戦で出会った運命の牝馬・シービークインと交配され、三冠馬・ミスターシービーを出しました。その他にもアラホウトク(桜花賞)、パッシングショット(マイルチャンピオンシップ)、サクラホクトオー(朝日杯3歳S)、ダイイチルビー(安田記念、スプリンターズS)、シスタートウショウ(桜花賞)など、続々と名馬を生み出し、内国産種牡馬のエースとして活躍し、平成4年に亡くなりました。トウショウボーイの仔は基本的にマイラータイプですが、ミスターシービーは母の父トピオ(凱旋門賞馬)のスタミナが色濃く出たのでしょうね。

 もう一頭のグリーングラスは、トウショウボーイ、テンポイントが去った後も走り続け、6歳春に天皇賞、7歳の暮れに有馬記念を制し、引退。そして7歳時は年度代表馬にも選ばれました。同世代の3強が揃って年度代表馬に選ばれるなど、異例のことで、それほどこの3頭は強かったのです。これぞまさに3強というべきでしょうね。グリーングラスは種牡馬となり、代表産駒はリワードウイング(エリザベス女王杯)で、GI勝ち馬はこの一頭だけ。他にはトウショウファルコやトシグリーン(何故かスプリンター)などを出していますが、重すぎる血が今の競馬には合わないのか、大成功とまではいきませんでした。

 種牡馬を引退したグリーングラスは、佐賀県で余生を送り、平成12年6月12日、牧場で牧柵にぶつかり骨折し、懸命の治療の甲斐無く、同19日、28歳でこの世を去りました。引退後の種牡馬の余生を巡って議論を呼んだグリーングラスでしたが、今は安らかに眠っていることでしょう。

 さて、ダービーを勝ったクライムカイザーは、故障がちでその後の成績は今ひとつでしたが、実力は底知れぬものを持っていました。グリーングラスはムラ駆けするタイプでしたが、大レースに強い抜群の底力を持った名馬でした。トウショウボーイとテンポイントの名勝負も、クライムカイザーやグリーングラスといった馬が真に強い馬だったからこそ、伝説とまでいわれるんでしょうね。だって、彼らをまとめて破った馬が大した馬でなければ、伝説なんてすぐに色褪せてしまいますからね。

*単枠指定:
 まだ馬番連勝が無く、枠番連勝のみだった頃、同枠取り消しによる混乱を避けるため、あらかじめ人気になると予想される馬を1頭だけの枠に入れた制度。例えば人気馬と人気薄が同枠に入り、人気馬の方が出走を取り消した場合、それまでにその枠の馬券を買った人は、もはや人気薄の激走に期待するしかないが、単枠であれば、その馬が取り消せば馬券は買い戻しとなるため、混乱が起こらない。現在は馬番連勝ができ、枠番連勝はそのリスクも考慮して買うこととなるので、この制度は廃止された。
*蹄葉炎:
 馬の蹄内部での血行障害が元で炎症を起こし、患部が腐る病気で、激しい痛みを伴う。骨折や靱帯の炎症などを起こすと悪い方の脚をかばい、良い方の脚に負担がかかり、発症する場合が多い。症状の進行を止めるのは難しく、予後不良(安楽死)となるケースが多い。テンポイント、トウショウボーイ、ミスターシービー、マックスビューティ、そしてあのサンデーサイレンスの命をも奪った、恐ろしい病気である。

文中の年齢は当時の表記によります。



伝説の最強馬からも恐れられた殺し屋<Exterminator>

 エクスターミネーター、皆殺し屋という名を持つこの馬は、1915年アメリカ生まれの騙馬(去勢された牡馬)。ケルソ、フォアゴーと並ぶ、アメリカ競馬史の騙馬三強と謳われるほどの名馬です。2歳から9歳までタフに走り、100戦50勝、2着3着ともに17回という、化け物みたいな成績。ケンタッキーダービー優勝の他、サラトガカップ4連覇などの偉業を達成しました。しかしこの馬、血統が良いわけでもなく見栄えも悪い。そもそもは競走馬としてではなく、調教師が調教で使う併せ馬用として購入したのでした。当然周囲の期待はまるで無し。そのエクスターミネーターが、どのようにのし上がっていったのか。

 2歳時は4戦2勝。まぁ、下級条件でそこそこに走った程度で、全く目立たない存在。一方の併せ馬の相手はサンブライアという2歳チャンピオンにしてケンタッキーダービーの最有力候補。3歳になってからはケンタッキーダービーを目標に、2頭は日々併せ馬をこなします。ところが、サンブライアがエクスターミネーターに遅れ続けるという大変な事態が発生しました。関係者はその原因に気付いておらず、サンブライアを原因不明の体調不良と判断し、ケンタッキーダービーを回避し、代理として併せ馬・エクスターミネーターを出走させることにしました。当然しんがり人気でしたが、レース後、関係者はサンブライアが決して体調不良などではなかったことを思い知らされたのでした。その後しばらく惜敗が続きますが、秋に世代最強のザポータに勝ち、ラトニアカップも制するなど、3歳時は15戦7勝。立派な成績でした。

 4歳以降は重いハンデに苦しめられながらもこつこつと走り、特に長距離では圧倒的な強さを発揮し、サラトガカップ(14F=約2800m)4連覇などの偉業を達成しました。本当に凄い馬です。最初は全く期待されず、休みらしい休みもなく、2歳からずっと走り続けて勝ち取った栄冠。しかしその裏には、現役で稼げるだけ稼がなければならない騙馬の宿命と悲哀が隠れているんですね。だって、これほどの馬なら、普通はあまり無理させずにさっさと種牡馬になりますもの。サンブライアと対戦した時は、種牡馬として期待されていた彼に土を付けないために、一杯に追われず、力では明らかに上と分かっていながら勝たせてもらえないこともあったとか。でも、この馬の強さは、この事実が雄弁に語ります。2つ年下の「伝説の最強馬・マンノウォー」のオーナーは、エクスターミネーターとの対戦要請を拒み続け、ついに実現しませんでした。あのマンノウォーがですよ。

 さて、このエクスターミネーターですが、単走レースで負けたという、世にも珍しい記録を持ってます。ホーソン競馬場に招待された時のこと。対戦相手がことごとく逃げ出してしまい、仕方なく暫定ルールとしてレコード・タイムに挑むという勝利条件が付けられたのですが、この時の彼は走る気ゼロ。のらりくらりと走った彼はレコードにほど遠いタイムでゴールし、単走レースで負けるという珍記録を達成しました。これもまぁ、愛嬌ですね。