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記事1


史上最弱のダービー馬<オペックホース>
史上最強のダービー馬<カブラヤオー&ヒカルイマイ>

 オペックホースは昭和54年10月に中京競馬場でデビュー。初戦は3着でしたが2戦目で勝ち上がり、続く3歳オープンも勝ち、阪神3歳ステークスに駒を進め4着。3歳時はまずまずの成績でした。3ヶ月の休養を挟み、毎日杯5着の後菜の花賞を制し、皐月賞に出走し、2着と好走しました。さらに4歳オープン2着の後で臨んだ東京優駿(日本ダービー)で、豪腕・郷原洋行を背に2'27"8のタイムで優勝、ダービー馬の栄冠に輝きました。秋は4歳上オープン6着の後、菊花賞に臨みますが、10着とボロ負け。でも、ダービー1着、皐月賞2着という成績が評価され、その年の最優秀4歳牡馬に選ばれました。と、そこまでは良かったのですが・・・

5歳時:マイラーズカップ、5歳上オープン、天皇賞(春)、宝塚記念、高松宮杯、朝日チャレンジカップ、毎日王冠、京阪杯、有馬記念・・・全敗

6歳時:マイラーズカップ、産経大阪杯、天皇賞(春)、4歳上オープン、ダービー卿チャレンジトロフィー、有馬記念・・・全敗

7歳時:日経新春杯、中京記念、マイラーズカップ、5歳上オープン、天皇賞(春)、宝塚記念、5歳上オープン・・・全敗

8歳時:金杯(西)、日経新春杯、中京記念、マイラーズカップ、鳴尾記念、朝日チャレンジカップ、トパーズステークス、ウインターステークス・・・全敗

何と、ダービーを最後に全く勝てず、ダービー馬がその後32連敗という、不滅の大記録を打ち立ててしまいました。それで「史上最弱のダービー馬」などという不名誉な呼ばれ方をしたわけですね。でも、この馬はブレニム系(父:リマンド)の晩成型ステイヤー血統で、本来ならダービーの後でさらに成長し、強くなってもおかしくないんですね。ではなぜそんなに勝てなかったかというと、原因は凄まじいまでの気難しさだったらしいですね。普通は年をとると落ち着いてくるものなのですが、オペックホースは年をとるごとにさらに気性難に磨きがかかり、騎手の言うことなど聞きやしない。引退レースが渋〜いダートの長距離戦っていうのも、栄光のダービー馬にとっては何とも侘びしい感じです。実はあまりに勝てなかったためか、それとも何でもいいからとにかく勝って引退させたかったのか、障害に転向するという話も浮上したのですが、ダービー馬を障害に下ろす(一般に障害は平地で活躍できなかった馬が回されるため、下ろすという表現を使います)のはあまりにも可愛そうだということで、ボツになったそうです。

 引退したオペックホース、牧場に引き取られますが、相変わらずの気難しさで、手こずらせたとか。それでも何年かしたら落ち着いたので、種付け料無料で種牡馬入りしました。するといきなり、北海道公営で活躍馬2頭を出し、その後種付け料が10万円にアップしたとか。今のスピード競馬には合わない血統ですし、必ずしもダートが得意な血統でもないので結局それっきりですが、能力の片鱗くらいは見せてくれたのかな。

 次は史上最強のダービー馬の話です。史上最強のダービー馬と言ったらどの馬か? 実際に一緒に走っていない限り、判断は難しいでしょうね。7頭の三冠馬の他、トキノミノルやクリフジなどの名馬もおり、頭を悩ますところです。ここでは実際に強いと言うよりも、最も「凄い」勝ち方をした2頭を紹介しましょう。

 まずはカブラヤオー。地味な血統で、あまり注目もされてなかったのですが・・・。昭和49年11月のデビュー戦は中団から伸びきれず2着でしたが、その後2戦目の新馬戦、ひいらぎ賞を連覇。年明けて昭和50年はジュニアカップ、東京4歳ステークス、弥生賞と、3歳時と合わせて5連勝し、皐月賞に出走しました。その皐月賞では、前半1000mを58"9という、当時の馬場を考慮すれば相当なハイペースで逃げ切り、無茶苦茶な暴走ぶりを発揮。でもそれよりも凄かったのが、さらにNHK杯を勝った上で臨んだダービー。皐月賞よりも400mも長いにも関わらず、ダービーでの彼は、それを上回る1000m58"6という信じられないハイペースで逃げまくり、競りかけてきた馬を競りつぶし、直線でヨタヨタになりながらも後続の追撃を抑え、大暴走の末の逃げ切り勝ち。最近でもダービーを逃げ切った馬(アイネスフウジン、ミホノブルボン、サニーブライアン)はおりますが、いずれも自分のペースでの華麗な逃げ。しかもサニーブライアンに至っては、皐月賞で戦法は分かり切っているのに誰も競りかけない、勝って下さいと言わんばかりのレース。ダービー馬にケチを付ける気はないですが、カブラヤオーの壮絶な逃げっぷりを見ると、何となく釈然としないものはありますね。では何故カブラヤオーは逃げ続けたのか? 普通、ダービーで一番人気ともなれば、競りかけてきた馬を先に行かせて、二番手で折り合うもの。菅原騎手がそうしなかったのは、カブラヤオーが他の馬を極端に怖がることを見抜いていたからなんですね。菅原騎手はカブラヤオーと接しているうちにその性格を見抜き、出走頭数の多いレースでは、馬込みに包まれないよう、何が何でも、暴走と罵られようとも、カブラヤオーを勝たせるために逃げまくったのでした。その性格を知っていたのは菅原騎手だけ。他に知られてしまえば敵は潰しにかかってくる。だからカブラヤオーが引退するまで、調教師にすら話すことなく、それを胸の内にしまっておいたのでした。ちなみにこの年、菅原騎手はカブラヤオーで皐月賞とダービー、テスコガビーで桜花賞とオークスを制し、年間クラシック4勝の離れ業を成し遂げました。ダービー後のカブラヤオーは脚部不安に悩まされ、1年の休養の後、4戦して(その間3勝)ターフを去りました。種牡馬としてはエリザベス女王杯を勝ったミヤマポピーを出しております。

 もう一頭のヒカルイマイはサラ系で、セリに出しても買い手は付かず、廃馬寸前のところでようやく買い手が付き、わずか150万円で売られた馬です。当然下馬評では話題にすら上りません。ところがふたを開けてみると、昭和45年、3歳でデビューした彼はいきなり3連勝し、続いて2着が2回。3歳戦は5戦3勝と、なかなかの成績でした。4歳になってからは4着→2着→1着(きさらぎ賞)→2着→4着でしたが、4歳6戦目の皐月賞で、後方待機から直線大外を追い込み、メジロゲッコウやニホンピロムーテーらを差し切りました。続くNHK杯では逆に最内を突っ込み優勝し、いよいよダービー。この昭和46年のダービーは、今でも語りぐさになっております。4年後のカブラヤオーとは正反対で、直線の入り口ではブービーの位置取り。ヒカルイマイはそこから大外を通って豪快に追い込み、何と直線だけで26頭をゴボウ抜きしてダービー馬となりました。このゴボウ抜き記録は今後破られることはありません。だって、今ではフルゲート18頭なのですから。以前、キタノダイオーについて書きましたが、ヒカルイマイもキタノダイオーと同じくサラ系の馬で、こちらは幻のではなく、正真正銘ダービー馬です。ダービーの後は少し間を空け、札幌のオープン戦で3着し、京都新聞杯に出走しましたが、9着に敗れてしまいました。しかもその時屈腱炎を発症していたことが判明し、無念のうちに引退しました。そして彼を待っていたのは、キタノダイオーと同じ、不遇な種牡馬生活でした。サラ系というだけで良質な牝馬は集まらず、その能力をついに発揮することは出来ませんでした。もはや廃用してその後は・・・、とその時、その噂を聞きつけたヒカルイマイの熱烈なファン達が「ヒカルイマイの会」を結成し、九州で静かな余生を過ごさせるため、終生の飼い葉代を負担したそうです。

文中の年齢は当時の表記によります。




アラブのメッカの最盛期を演出した名馬<スマノダイドウ>

 スマノダイドウは宮崎産馬で、昭和47年、3歳時にダイニトキタカラの名で佐賀競馬場でデビューしました。当時の佐賀競馬は馬不足から、アングロアラブ(以下アラブ)とサラブレッドが混合で走っておりましたが、彼はサラブレッドを全く寄せ付けず、圧倒的なスピードで5連勝し、その後兵庫に移籍しました。そして兵庫でも2連勝、2着1回という成績で3歳戦を終えます。スマノダイドウという名前は、移籍3戦目に馬主が替わり、その時に改名されたものです。明けて4歳、4連勝した彼は大井へ移籍し、アラブダービーを勝ちますが、ホクトライデンにだけは歯が立たず、再び兵庫へと戻りました。そして園田競馬を中心に、スマノダイドウ・タイムラインの名勝負を繰り広げ、兵庫の公営競馬は大いに盛り上がっていたそうです。

 しかし明け5歳、昭和49年1月30日、あの「園田事件」が勃発します。スタート時、タイムラインとスマノダイドウのゲートだけが開くのが遅く、そのため2頭は大きく(約15馬身)出遅れ、懸命に追い込んだものの3着、4着が精一杯。人気の2頭が連を外したため、2万2000円台の大穴となりました。ところが後になって主催者側が「このレースで不正行為の疑いがある」として不成立を表明。これに怒ったファンが穴場に殴り込みをかけ、窓を割り、払戻所に乱入して火を付け、現金を強奪、ついには機動隊を出動させるなど大規模な事件にまで発展してしまいました。後に調べたところ、現金だけで8千万円もなくなっていたそうです。その影響で開催は暫く中止。あまりの騒動に「園田競馬を廃止しろ!」という地域住民の運動までもが起こり、その後、園田競馬の人気は急落の一途をたどることになります。そんなこともあってか、5歳時はやや不振でしたが、6歳で再び大井へ移籍し、銀盃を勝ち、全日本アラブ大賞典ではホクトライデンの2着で現役を引退します。37戦21勝という立派な競走成績でした。

 これほどの競走成績を収めたスマノダイドウでしたが、彼の真価が発揮されるのは種牡馬入りしてからでした。アラブ総合リーディングサイヤーが7回、同3歳リーディングが3回で、資料はちょっと古いですが、平成11年4月4日現在、出走1231頭、勝ち馬1102頭、重賞勝ち馬が62頭、産駒の総収得賞金は100億円超、出走率9割、勝ち上がり率も9割という、素晴らしい成績を残しています。そして代表産駒のスマノヒツト、サチエノヒリユウは種牡馬としても大活躍しております。スマノダイドウは平成7年7月28日、盲腸破裂のために他界しましたが、数多くの優秀な種牡馬を残し、スマノダイドウ系を創り上げたのです。 まさに日本のアラブの質を飛躍的に高めた名馬でした。

 一方では、スマノダイドウには”テンプラ”疑惑が付きまといます。本当の父はミトタカラではなく、当時ミトタカラと同じ種馬場にいたカブトシロー(天皇賞を制した稀代のクセ馬)だというのです。しかし、そんなことはどうでも良い。テンプラ疑惑があるのはこの馬に限ったことではないし、何より零細生産者によく走る馬を授け続け、多くの牧場の家計を助けてくれたのです。それに、たとえテンプラであったとしても、スマノダイドウには何の罪もないのです。

*テンプラ:血統を詐称すること。
文中の年齢は当時の表記によります。




私が一番好きだった馬<スダホーク>

 スダホークは昭和57年生まれの芦毛馬。父・シーホークはモンテプリンス、モンテファスト、ウイナーズサークル、アイネスフウジンなどを出した名ステイヤー、母の父・ファーザーズイメージはスワップスの直仔で、ダート得意なスタミナ血統。昭和59年11月、東京の新馬戦(芝1800m)でデビューし、3着。2週後の新馬戦(ダート1700m)で初勝利をあげますが、これは彼が出走した中で一番距離の短いレースです。次いで葉牡丹賞も勝ち、3歳時は3戦2勝。シーホークは基本的に奥手のステイヤーなのですが、意外と仕上がりが早く、スピードもありますから、3歳戦で活躍する馬も結構いましたね。

 明けて4歳は、3戦目で報知杯弥生賞(G2)を勝ち、クラシック戦線に堂々参戦しますが、皐月賞6着、ダービーはシリウスシンボリの2着、菊花賞はミホシンザンの2着と、今一歩足りない成績でした。

 翌年、気を取り直したスダホークは、AJC杯(G2)、京都記念(G2)を連勝、産経大阪杯(G2)はタイム差無しの2着(1着はサクラユタカオー)。その成績を引っ提げ、天皇賞に出走すると、堂々の主役(1番人気)に躍り出ます。ところが終わってみれば、クシロキングに1秒差を付けられて7着。それ以降スランプに陥り、勝てない日々が続きました。

 さらに翌・昭和62年は、阪神大賞典(G2)で13ヶ月ぶりの勝利を収め、再び天皇賞に挑戦しますが、ミホシンザンの3着。この時はニシノライデンがアサヒエンペラーの進路を妨害し、失格となっているため、事実上は4着。G2ならすでに4勝をあげているのに、GIはどうしても勝てない。結論を先に言いますと、彼が勝利をあげたのは、この年の阪神大賞典が最後でした。

 スダホークは追い込み馬でした。鋭く切れる脚はないけど、いい脚を長く使える。3〜4コーナーでまくり気味に進出し、直線で追い込むというのがパターンですが、でもちょっと足りない。そんなもどかしい馬ですが、名バイプレーヤーとして、人気はありましたね。そのスダホークのレースで私が一番好きなのは、引退レースとなった昭和63年の宝塚記念(GI)。驚異の上がり馬・タマモクロス、マイル王・ニッポーテイオーらが人気で、直前の天皇賞が7着だったスダホークは、13頭立ての8番人気。誰もがもう終わった馬と思っていた。ところが彼は、3コーナーからまくって出ると、彼らしい息の長い末脚を発揮。先頭のタマモクロスは楽々と抜け出し、とても届かない。でも2番手のニッポーテイオーを懸命に追い詰め、「あと少し」というところでゴール。結果は3着ですが、久々にスダホークらしさを見せての引退。通算成績は30戦6勝(内G2を4勝)でした。

 引退後は誘導馬(競馬場で出走する馬を先導する馬)になるという噂でしたが、どういう訳か種牡馬になり、予想通り大した仔も出さずに終わりました。その後の彼は、つま恋・ふれあい牧場で、乗馬用として訪れた人達を乗せており、さらにその後は日高ケンタッキーファームでやはり乗馬用として活躍したとのことです。スダホークは関東馬でしたから、誘導馬になれば東京か中山あたりでいつでも会えると期待してましたのでちょっと残念でしたが、多くのファンに囲まれた幸せな人生、いや、馬生なのかもしれないですね。ところでこの馬、かつて人気テレビ番組・さんまのなんでもダービーに出走したのをご存知でしょうか? 丁度種牡馬を引退した頃で、出走メンバーはポニーとペルシュロン(ばんえい競馬で橇を曳いて走る体重1トンもある品種)とスダホーク。ハンデ戦で彼は最長の1200mを走りましたが、4コーナー付近でもはや脚が上がらなくなり、ポニーに負けるという体たらくぶり。現役時代は1200mなんて短すぎて走ったこともない馬でしたが、種牡馬としてのんびり生活しているうち、すっかり体がなまっていたのでしょう。ちなみに優勝は名ポニー・ナリタブラリアンでした。
文中の年齢は当時の表記によります。




セクレタリアトがなんぼのもんじゃい!天下のブッチギリ王<シンボリクリエンス>

 シンボリクリスエスという似た名前の(しかも強い)馬がいましたので、シンボリクリエンス? クリスエスの間違いじゃないの? なんて方もいらっしゃるのでは? ちなみにクリスエスって片仮名で書くと変な感じですが、この名前は父・Kris.Sからとってます。さて本題。その強〜い馬と似た名前を持つシンボリクリエンスとはどんな馬だったのか? 平成4年4月11日、中山競馬場で、私はとんでもない光景を目の当たりにしました。2着に推定50馬身差のブッチギリ。1着の馬が悠々とゴールしたその瞬間、2着以降の馬はまだ直線の半ば、中山の急坂でもがき苦しんでました。そう、そのとてつもない勝ち方をした馬がシンボリクリエンスです。あのセクレタリアト(アメリカ三冠を全てレコードタイムでぶっちぎった名馬)がヴェルモントステークスで2着につけた着差がたったの31馬身。この馬は50馬身ですよ、50馬身。ただし・・・、シンボリクリエンスが勝ったのは障害レース・中山大障害(春)(現在は中山グランドジャンプとして国際レースに生まれ変わりました)ですけどね。

 平地では新馬勝ちを収め、条件特別を2つ勝つなど、そこそこに走った馬でしたが、平成2年に6歳で障害に転向すると、3戦目で大差勝ち。次の400万下もハナ差で制し、オープンに駆け上がります。その後オープンで2戦しますがいずれも5着と振るわず、休養に入ります。すっかりリフレッシュした翌平成3年は、東京障害特別を春秋連覇し、中山大障害を春秋連続2着と大活躍。しかしやはり障害の最高峰・中山大障害での連続2着は、彼にとっては悔しかったのかも知れません。その鬱憤を晴らしたのか、翌年、8歳になったンボリクリエンスは、中山大障害(春)で、前年秋の覇者・シンボリモントルーに推定50馬身もの差を付け、圧倒的な勝利を収めたのでした。この時は他にも2頭の中山大障害馬パンフレットとワカタイショウが出走しており、8頭立てとはいえ、決してレベルは低くないはずでした。しかし、重馬場で行われたそのレース、計4頭が落馬し、その中にはパンフレットとワカタイショウも含まれていました。先行したシンボリクリエンスは、巻き込まれることなく気分よく走る。まあ、運もあったのでしょうし、そもそも障害レースは差がつきやすいのですが、前回覇者に100m以上もの差を付けたのですから、その光景を見て半ば唖然としてしまいました。ちなみにこの年は中山大障害(秋)も2馬身差で勝ち、見事春秋連覇を成し遂げますが、秋はもはやその勝ち方に満足していなかったことでしょう。

 さて、シンボリクリエンス君は翌年も現役を続け、再び中山大障害(春)に出走してきましたが、この時はメジログッテンにぶっちぎられて負けてしまいました。そして彼は、それを最後に引退してしまいました。1年前の圧倒的な勝利と誇らしげな姿を思い起こすと、その日の寂しそうな姿が妙に哀れでした。
文中の年齢は当時の表記によります。




無類の女好きのエピソード<ホウヨウボーイ&ガーサント>

 たまにはこんなお話も良いでしょう。ホウヨウボーイは昭和55年の有馬記念と翌年の天皇賞(秋)を制した名馬で、19戦11勝という立派な成績を残しています。が、それ以上に「エッチな馬」として有名です。何しろデビュー戦(3歳新馬)で馬っ気(*)を出したまま6馬身ちぎったのに始まり、いつも××を△△させてたというのですから。負けた8回の内6回は、牝馬に勝ちを譲った(?)ということから、偉大なるフェミニストと呼ばれたこともありましたが、単に牝馬が気になってレースどころではなかったのでは? 豊洋ボーイならぬ抱擁ボーイだったんですね。そういえば平成9年のジャパンカップでのピルサドスキーも、馬っ気を出してたのに勝っちゃいましたね。普通ならとてもレースどころではなく、この状態で勝つのはよほどの能力の持ち主だとか。ピルサドスキーの妹であるファインモーションの活躍からも、その素質が伺えます。

 話は戻ってホウヨウボーイが7歳の秋に天皇賞(秋)に出走した時、彼は1枠2番。そして1枠1番には牝馬のハセシノブ。パドックや本馬場入場の隊列は、馬番の順番ですから、つまりはホウヨウボーイの前をハセシノブが歩いているという状況。ホウヨウボーイ君、目の前で魅惑的なお尻が揺れているのを見てしまうと、とても競馬どころではなくなってしまいます。ということで、本馬場入場の際に、一番外の牡馬の後ろを歩かせるという寛大な措置がとられ、レースに集中できた彼は、見事勝利を収めたのでした。

 引退後、ホウヨウボーイは種牡馬となり、その初年度には60頭の申し込みがありました。ホウヨウボーイ君にとっては、ワクワクするようなセ○○スライフの到来です。しかし、彼は48頭の牝馬と交配したところで、突然の胃破裂により、夢にまで見た生活を存分に堪能する前に、この世を去ってしまいました。しかも交配した48頭のほとんどは不受胎で、残された産駒はわずかでした。

 ガーサントはかつて社台牧場が輸入した種牡馬で、タイシュウ、インターヒカリ、フリートターフ、アラートターフ、ハクコンゴウなどの、障害重賞勝ち馬を輩出し、リーディングサイヤーに輝いたこともあります。ノーザンテーストが成功する前の、決して楽ではなかった牧場の屋台骨を、バウンティアスとともに支えた馬でした。この馬も大の女好きで、人間ならば70〜80というお爺さんになってもまだ、牝馬を見ると興奮していたという馬だったそうです。さすがにもう限界だろうと、種牡馬を引退したガーサントは山奥の静かな牧場に預けられました。静かな余生をという、関係者の心遣いですね。ところが・・・、ガーサントの放牧場の隣には、柵一つ隔てて牝馬がいたのでした。ガーサントはとたんに××を△△させ、あたりを走り回って牝馬にモーションをかけたのです。そして・・・、突然パタっと倒れ、動かなくなってしまいました。興奮しすぎて心臓麻痺を起こし、そのまま帰らぬ馬となってしまいました。こういうのを「年寄りの冷や水」と言うのでしょうが、まぁ、彼は幸せだったのかな?

*馬っ気・・・牡馬が発情すること。あの部分がパッと見て分かるほど巨大化しますので容易に分かります。一方牝馬が発情することを「フケ」と言いますが、これは見分けるのは難しいです。いずれにしてもレースで能力を十分に発揮できない状態です。
文中の年齢は当時の表記によります。なお、○○、××、△△には、適当な文字を当てはめてお読み下さい。




フェデリコ・テシオ氏の最高傑作<Ribot>

 イタリアの天才馬産家、フェデリコ・テシオ氏は、ドルメロ牧場を拠点とし、素晴らしい相馬眼と独自の理論によって数々の名馬を輩出しました。その中でも最高傑作と称されているのがリボーです。リボーの父系はサンシモンに端を発し、ラブレー、アヴルザク、カヴァリエレダルピノ、ベルリーニを経て父・テネラニへと続きます(カヴァリエレダルピノ、ベルリーニ、テネラニはいずれもテシオ氏の生産馬)。そしてイギリスに売却されたテネラニの元に、これまたテシオ氏の生産馬・ロマネラを送り込み、誕生したのがリボーです。いわばテシオ氏の理論と執念の結晶であるのですが、残念ながら彼は、リボーが3歳になった年、その神憑り的な大活躍を見ることなく、その輝かしい人生に終止符を打ちました。リボーという名は19世紀のフランスの画家、テオドル・オーグストン・リボー画伯に因んだ馬名ですが、テシオ氏は優れた画家でもあったようで、他にもレンブラント、ミケランジェロといった著名な画家の名前が付けられた馬がいたようです。

 イギリスからドルメロ牧場に来たリボーは、牧場の人々から「イル・ピッコロ(ちびっこ)」とあだ名されるほど小柄な馬でしたが、テシオ氏は「優れた素質を持っている馬だ」と、この馬の真価を見抜いていたといいます。しかし、あまりにも小柄であったため、リボーをクラシック登録しなかったとされています。

 そのリボーはデビュー戦を快勝すると、その後クリテリウム・ナツィオナレ(1200m)、グランクリテリウム(1500m)、ピサ賞(1500m)、エマヌエル・フィリベルト賞(2000m)、ブレンボ賞(2200m)、ベサナ賞(2400m)、凱旋門賞(2400m)、ジョッケクルブ大賞(2400m)、グイリオ・ヴェニノ賞(2400m)、ヴィッテュネオ賞(2400m)、ガルバニャーテ賞(2400m)、ミラノ大賞(2400m)、キングジョージVI&クインエリザベスダイヤモンドステークス(12F)、ピアツァーレ賞(1800m)、凱旋門賞(2400m)と、計16連勝を飾ります。実はこれがリボーの全成績。16戦16勝というパーフェクトな成績でした。特に2度目の凱旋門賞は前年に続いて重馬場となり、悠々と3番手を追走したリボーは直線、鞭も入れられないのに爆発的な脚を見せ、6馬身差で圧勝。見事史上5頭目の凱旋門賞連覇を達成し、世界からロンシャン競馬場に集まった競馬関係者は、ただただその強さに呆気にとられるだけだったそうです。リボーは先行馬ですが、デビュー間もない頃、将来を見据えて抑えるレースをさせたところ、リボーは騎手の指示に反抗し、折り合いを欠き、やっとの思いで勝利を収めたということです。それ以来馬に逆らわず先行させるようになったそうですが、彼は極めて頑固な意志の強い馬で、スピードを制限されることがこの上なく嫌いだったようです。

 引退後のリボーはイギリス、イタリア、アメリカで種牡馬生活を送り、モルヴェド、プリンスロイヤルという2頭の凱旋門賞馬を輩出するなどまずまずの成功を収め、アーツアンドレターズ、トムロルフ、そしてグロースターク&ヒズマジェスティ兄弟らの活躍によってリボーの血は後世に伝わりました。テシオ氏のもう一頭の傑作・ネアルコが、世界の種牡馬地図を完全に塗り替えるほどの大成功を納めたのに比べれば物足りませんが、抜群の底力とスタミナを伝える血統として、現在でもその影響力を堅持しております。現在流行の血統の一つであるロベルト系は、勝負に淡泊な面がありますが、その中にあって日本で活躍したブライアンズタイムは、大レースに強い底力を伝える種牡馬です。そしてそれはブライアンズタイムの母の父であるグロースタークの影響が強いと言われてますね。

 ところで、トムロルフの仔で二戦級の種牡馬だったホイストザフラッグは、アレッジドという馬を輩出しました。この馬こそ曾祖父・リボーに続く史上6頭目の凱旋門賞連覇を達成した馬です。突如として大物を出すのもこの血統の特徴ですね。




元祖怪物クン<タケシバオー>

 タケシバオーはハイセイコー(下の記事参照)と同じくチャイナロックの代表産駒です。彼が制した大レースは天皇賞だけで、実績では他の名馬に比べ、特に取り立てることもない馬ですが、この馬の強さは別の次元のものでした。芝もダートもこなし、距離を選ばず、良馬場だろうが不良馬場だろうが全くお構いなし。どんな条件にも対応できる幅広い適性を持ち、なおかつ化け物のように強い、そんな馬でした。叩き出したレコードは5つ。中でも30年間ついに破られなかった東京ダート1700m・1分41秒9という不滅のレコードは圧巻です(2002〜2003年の改修で東京ダート1700mは廃止されたため、今後破られることはありません)。

 タケシバオーは昭和42年に新潟でデビュー。そして函館・札幌・福島・中山と転戦し、4勝を挙げて朝日杯に駒を進めます。3番人気のタケシバオーは、何と2着を7馬身もちぎって圧勝し、一躍関東3歳ナンバーワンにのし上がりました。その勝ちッぷりと、各地を転々とした経歴から、いつの日からか「野武士」と呼ばれたのでした。その後東京4歳Sでダート1700mのレコードを叩き出し、クラシック候補となりますが、弥生賞でアサカオーの2着と敗れたのがケチのつけはじめで、勝ち星に見放されてしまいます。スプリングS、皐月賞、NHK杯、ダービー全て2着という完全なる2着病。それでも強さの片鱗はしっかりと見せておりました。秋になってなんでもないオープンでまたもや2着、しかしここで陣営は何と、菊花賞には目もくれず、ワシントンDCインターナショナルへの遠征を敢行しました。残念ながらアクシデントに見舞われ最下位と敗れてしまいますが、果敢に海外挑戦をしたということは、称賛に値します。

 翌年2月、東京新聞杯でタケシバオーは久々に勝利の美酒を味わいますが、それを機にタケシバオーの2着病は完治し、破竹の連勝が始まりました。続くダート1700mのオープン戦で、先述の大レコードを叩き出し、京都記念では重馬場ながら62キロを背負って快勝、続くオープンも60キロを背負ってレコード勝ち。そして春の天皇賞も直線だけの競馬で快勝。次走・ジュライSでは、どろどろの不良馬場で65キロという酷量を背負いながら大外強襲。このレースはタケシバオーの強さを強烈に印象づけました。秋は毎日王冠、中山の英国フェア開催記念(スプリンターズS)と連勝し、2度目のアメリカ遠征を敢行したタケシバオー。しかし熱発でとてもレースに使える状態ではなく、またしてもしんがり負けを喫し、ボロボロになって帰国したタケシバオーはそのまま引退しました。種牡馬として重賞勝ち馬を輩出し、皐月賞馬・ドクタースパートの母の父となるなど、まあまあの活躍をしましたが、その鬼神の如き破壊力を受け継いだ産駒は、残念ながらいませんでした。この馬以降、怪物と呼ばれる馬が何頭か登場しますが、この馬こそ怪物の名にふさわしいと、私は勝手に思っております。
文中の年齢は当時の表記によります。



元祖アイドルホースは精力絶倫のマッチョマン<ハイセイコー>

 昭和48年、地方・大井競馬で青雲賞を含む6戦6勝の成績を引っ提げ、中央競馬に殴り込みをかけた一頭の牡馬がいました。そして彼は、弥生賞、スプリングステークス、皐月賞、NHK杯を4連勝し、続くダービーでは単勝支持率66.7%というダントツの一番人気に推されました。そう、元祖アイドルホース・ハイセイコーです。誰もがハイセイコーの勝利を疑わなかったダービー、しかし勝ったのは伏兵・タケホープで、ハイセイコーは3着に敗れました。休養を挟んで秋の京都、春の雪辱を・・と期待された菊花賞。しかし、タケホープとの壮絶な叩き合いの末、僅差でまたも敗れてしまいました。その後のハイセイコーは中山記念、宝塚記念、高松宮杯を制しますが、結局中央では15戦7勝。立派な成績ではありますが、今でいうGIレースは皐月賞と宝塚記念の2つだけ。顕彰馬としては少々物足りない成績ではあります。この馬が殿堂入りしたのには、国民的なアイドルとなり、中央競馬会のイメージアップに多大な功績を残したことが大きな要因でしょう。ただ、成績に関して一言いえば、ハイセイコーは中央に移籍して以来、一度もダートで走ってはいません。ハイセイコー(写真や彫像でも可)を見たことがありますか? 馬体重500kgを越えるデカ馬で、胸の筋肉が大きく発達した逞しい体格。そう、彼は完全無欠なダート馬なのです。芝は不得手とは言わないまでも、断然ダートの方が合っていたんですね。その彼が芝のレースだけでそこまで勝ったのですから、やはり凄い馬だったんでしょうね。もしダート競馬の体系が当時から整備されていれば、彼は無敗の帝王として君臨していたかも知れません。

 引退後のハイセイコーは種牡馬となり、カツラノハイセイコ(ダービー、天皇賞)、サンドピアリス(エリザベス女王杯)、ハクタイセイ(皐月賞)などを輩出し、成功しますが、潜在能力から考えればこの程度? と思えてしまいます。キングハイセイコー、アウトランセイコー、ライフタテヤマ・・これらの馬がダートの大レースを走っていたら・・・でも、当時は中央では未だダート路線は整備されておらず、地方で走るか、60kg以上を背負って中央のダートを走り続けるか、芝に転向するか、そういった選択しかなかったのは残念です。ただ、ハイセイコーは引退するまで、種牡馬として高い人気を誇っていましたし、種付け料も400万円以下には下がらなかったように記憶しております。それは何故かと言いますと、ハイセイコー産駒はダートの1800m前後ならば、ほぼ確実に走ります。この条件はどこの競馬場でもどの季節でも、最下級条件からオープンまでまんべんなく組まれておりますので、高い確率で1勝・2勝程度はできます。条件が上がって勝てなくなっても入着程度は可能ですし、タフで、中2週で使えることからその入着賞金もバカにはなりません。また、芝をこなすのは一部の馬だけですが、芝でも道悪(重・不良)なら走ります。さらには入着すれば父内国産馬奨励金という付加賞金まで貰えます(現在は廃止)。つまり、たとえ大物ではなくても取りっぱぐれる可能性は少ない。それが人気になっていた要因ですね。ところで、彼は父・チャイナロック同様の精力絶倫で、無類の種付け好きだったということです。そしてその性質をもっともよく受け継いでいた後継種牡馬はライフタテヤマだったとか。でも、そのライフタテヤマも、とうの昔に引退しております。




こんな馬もう二度と出ない?<Selene>

 1919年生まれ、ギリシャ神話の女神の名を持つ英国の牝馬。シリーンという発音らしいのですが、日本ではギリシャ語に近いセレーネと呼ばれることが多いようです。セレーネはサンシモン(セントサイモン)系チョーサーの仔で、体高(肩までの高さ)154cmの小柄な馬だったそうで、小さすぎたのでクラシック登録はされていなかったようです。でも2歳時、3歳時ともに11戦8勝という成績だったようです。ただ、大レースを勝ちまくったというわけではないようで、何故こんな馬もう二度と出ない? のか。それは、この馬がシックル(父:ファラリス)、ファラモンド(父:ファラリス)、ハイペリオン(父:ゲインズボロー)という3頭もの根幹種牡馬を生んでいるということ。シックルは3代後の名馬・ネイティヴダンサーが種牡馬としても成功し、さらにネイティヴダンサーの孫に当たるミスタープロスペクターが大成功し、現在でもその後継種牡馬たちが勢力を拡大しております。ファラモンド系は孫のトムフールとその息子バックパサーの活躍によるところがほとんどですが、父としては成功しなくとも、母の父としては史上最強の名を欲しいままにしておりました。そしてハイペリオン。現在、世界中のサラブレッドの血統を調べても、この名前が出てこない馬は少数派です。それほど偉大な足跡を残した種牡馬だったのですね。アリバイ、オウエンテューダー、ロックフェラ、カーレッド、アリストファネス、オリオール、ホーンビーム、ハイハットなど、ハイペリオンの後継種牡馬は数多く、その血は世界中に広がりました。現在、直系としては衰退した血統ですが、代を重ねても底力を失わず、突如として大物を出す可能性をまだまだ秘めております。それにしても兄弟3頭がこうして血統の枝葉を広げていくという例は稀で、セレーネは本当に優秀な繁殖牝馬だったんですね。

 ちなみにサラブレッドは時代が下るごとに少しずつ体が大きくなってきているのですが、何度か逆行(小型化)していったことがあるようです。その一つがハイペリオンが種牡馬として大成功を収め、その仔たちもまた種牡馬として活躍した時期で、ハイペリオンも母セレーネ同様小さな馬だったそうです。




飛越は天才的。でも・・・<シンリョク>

 どう考えても名馬とは言えませんが、実際に間近で見て印象に残っている馬です。シンリョクは史上初の茨城産ダービー馬&史上初の芦毛ダービー馬であったウイナーズサークルの仔で、平地では大敗続きで一度も勝てず、障害に転向してきました。専門紙に飛越が上手いと書いてあったので、どんなものかと思って見に行ったら本当に上手い。彼の飛越はとても綺麗で、リズム感、スピード感ともに抜群でした。飛びは低い。でも、最近よく見かける飛びが低くて危なっかしい馬とは違う。どの障害もギリギリ低く飛ぶんです。低い障害は低く、ちょっと高い障害はその分高くといった具合に、障害の大きさをちゃんと把握してるんですね。だから低くても危うさは全くない。それから、障害と障害の間隔が詰まった東京の連続障害、これが意外と難関なのですが、シンリョクは飛んですぐ、次の障害のはるか手前でもうタイミングを合わせている。だから障害の手前に来て慌てて踏み切りを合わせることがなく、距離感もちゃんと把握している馬でした。障害を飛ぶ度に脚をぶつけ、ボコボコ音を立てる下品な障害馬が横行していた中、この馬はとても上品な障害馬でしたね。ある時、中山の未勝利戦での話。シンリョクともう一頭が先行争いをしていたのですが、2頭並んで障害を飛んだはずなのに、飛んだ直後にはシンリョクが2〜3馬身前に出ている。追いついてきても次の障害を飛ぶとまた差が付く。飛越が上手いか下手かでそれだけ差が付くんですね。

 そんなに飛越が上手いなら、さぞかし活躍しただろう・・・と思いきや、結局一度も勝てずに地方競馬に移籍してしまい、その後も残念ながら勝てなかったようです。では何故、そんなに飛越が上手いのに勝てなかったのか? いつも先頭で直線に入ってくるのですが、如何せん平地の脚がない。もう障害は一つもない最後の直線で、いつも差されてました。せめて平地の未勝利戦で、勝てないまでも入着する程度の脚があれば、障害で大成功していたかも知れないな。でも、2着が多かったので、馬券では儲けさせてもらいましたね。ひょっとしてこの馬、大障害を勝つよりも未勝利を勝つ方が難しかったのでは? なんて思ったりもしました。




何故か記録から無視され続けた史上2頭目の三冠馬<クリフジ>

 クリフジは昭和15年生まれの牝馬で、史上初の三冠馬”セントライト”の2つ年下。私はこの馬こそ、史上2頭目の(変則)三冠馬であると主張します。☆今では変則三冠馬として紹介する場合も増えているようです。

 クリフジの戦績は11戦11勝。どのレースも後続に影をも踏ませぬ圧勝という、凄まじい勝ちっぷりだったそうです。で、その主な勝鞍はというと、東京優駿(日本ダービー)、阪神優駿牝馬(現在の優駿牝馬:オークス)、京都農商省賞典四歳呼馬(現在の菊花賞)。ダービー、オークス、菊花賞という見事な三冠馬ではないですか。現に公式記録でも、第12回日本ダービー、第6回オークス、第6回菊花賞の勝ち馬として、クリフジの名が記録されているのですから。では、三冠とは何か? そもそも「冠」の定義としてはイギリスの競馬体系を規範に創設されたクラシックレースの勝ち馬(牝馬の場合は秋華賞、かつてはエリザベス女王杯も「冠」の対象)に与えられる称号。クラシックレースとは、桜花賞、皐月賞、優駿牝馬(オークス)、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞の5つ。変則的とはいえど、現にクラシックを3つ勝っているのですから、紛れもない三冠馬です。牝馬なのだから牝馬三冠が筋でしょうが、その頃はエリザベス女王杯は存在せず、牝馬もクラシックは菊花賞が最終戦だったわけですし、そもそも何故牝馬限定のレースがあるのか? それは牝馬が能力的に牡馬に劣るからではないのか? その牝馬が牡馬に混じってダービーと菊花賞を勝っているのですから、考えようによっては牝馬三冠よりも価値のある記録といえるでしょう。でも牝馬三冠にこの名はありませんし、三冠(皐月賞・東京優駿・菊花賞)でもない。なのでどちらにもクリフジの名は載っていなかったりする。かつてはこんな凄い馬がいたということを知ってもらうためにも、公式にこの馬を三冠馬として認定して頂きたいものです。ちなみにクリフジは、風邪を引いてデビューが遅れたようで、それがなかったら桜花賞も皐月賞も勝っていたかもしれない・・とまで言われています。戦時中で極端に馬が少なかったこともありますが、よほど強かったのでしょうね。




ハンガリーの奇跡<Kinczem>

 歴史上忘れられない一頭として、是非知って頂きたい馬がキンツェムで、世界の無敗最多勝記録を持ち、ハンガリーの奇跡と称えられている馬です。キンツェムは1874年、オーストリア・ハンガリー帝国生まれのニューミンスター(*)系牝馬で、ハンガリー、ドイツ、オーストリア、チェコ、イギリス、フランスの6ヶ国で走り、その戦績は奇跡の名にふさわしく、54戦54勝という信じられないような全勝記録です。しかもそのレースというのが945m〜4000mという距離で、短距離も長距離もこなす完璧な内容。最高で168ポンド(約72.7kg)も背負って、なおかつ10馬身差で圧勝したり、160ポンド以上を背負いながら中一日で走ったりと、そのタフネスぶりも特筆もの。勝ったレースもドイツのバーデン大賞3連覇、英国のグッドウッドカップ(ただし、英国の馬はことごとく対戦を避けたため、単走レース)、フランスのドーヴィル大賞など、大レースを勝ちまくりました。でも、これほどの凄い馬なのに、2歳時、見栄えが悪いという理由で売れ残ってしまったという逸話も残っております。丁度その頃、彼女はジプシー集団に連れ去られ(外国では馬の盗難は珍しいことではないらしい)、幸いにもすぐに発見されたのですが、警察がジプシーに「他にもっと美しい馬がいるのに何故あんな見窄らしい馬を盗んだのか」と尋問したところ、ジプシー曰く、「見てくれが悪いからこそ、あの馬には何倍もの勇気が備わっているんだ」。そのジプシー、なかなかの相馬眼の持ち主かと思います。キンツェムの戦績は54戦54勝となっていますが、実際にはもう一つ走ってます。その時は1着同着だったということですが、寝覚めが悪いということで再戦となり、その時の記録は公式記録から除外されたということだそうです。もちろん再戦は6馬身差で圧勝したとなっています。唯一、同着にまで追いつめられたそのレース、キンツェムには何の責任もありません。実は騎手が酔っぱらっていて、いい気分で馬上の風にあたっていたからだとか。再戦の時は素面だったんですね。

 キンツェムにはこんな逸話も残っています。彼女は聡明で愛情深い馬で、彼女を管理していたフランキー厩務員がある寒い夜、毛布なしで寝ていると、キンツェムは自分の馬衣をくわえ、フランキー氏に掛けてあげたといいます。フランキー氏もキンツェムを深く愛し、書類に署名をするときも「フランキー・キンツェム」という名前を用い、この名前で兵役を務め、死後この名前で埋葬されたそうです。また、猫のお友達がいて、彼女は常にその猫と一緒に旅をし、勝鞍を重ねていったとか。St. Simon(3つ下の記事参照)とはえらい違いですね。

*ニューミンスター:ハンプトンの祖父に当たる馬。ハンプトンはサン・イン・ロー、ファイントップ、そして20世紀初頭の大種牡馬・ハイペリオンの祖先として知られています。日本の黎明期の大種牡馬・トウルヌソルもハンプトンの系統です。




日本競馬史上最弱馬候補の一頭<サシカタ>

 サシカタという馬は昭和21年生まれのアングロアラブ牝馬で、159戦0勝、2着1回、3着4回という記録が残っていますが、こう書いてしまうとこの馬の弱さは上手く表現できませんね。実は2着・3着になった計5つのレースは全て3頭立て。つまり2着でもブービー、3着はビリでもあるんですね。この馬の場合は159戦115ビリ、26ブービー、1落馬、17それ以外と書いた方がいいかなって思います。それにしても159戦とは・・・。

 走った回数だけなら250戦を達成したウズシオタロー(こんな名前ですが牝馬です)の方が上で、しかもタローは4歳〜14歳まで走り、15勝、2着17回、3着23回と、まあまあな成績を残してます。サシカタのすごいところは159戦を3歳〜7歳までの間にこなしていること。その壮絶なローテーションは、ウズシオタローの比ではありません。一番凄かったのは昭和27年で、彼女はこの年だけで82回もレースに出走、一番多かった8月には12回も走ってます。今では禁止されている2日連続出走が生涯51回。いくら頑丈なアングロアラブといえど、この使われ方は無茶苦茶です。戦後の極端な馬不足がこんな馬を生む土壌となっていたのでしょうね。でも逆に言えば、この使われ方は、この馬の素晴らしさを物語っているとも言えます。暴れて怪我でもすれば長期休養を余儀なくされますし、言うことを聞かなければ体力を浪費してしまいます。従順で大人しく、賢い馬だったからこそ、これほどの凄まじいローテーションで走れるわけで、競走馬でなければ稀に見る名馬だったに違いありません。

 サシカタは引退後、繁殖牝馬となり、ダイゴツバメという娘を生みます。そのダイゴツバメからは、園田(当時アラブ専門の競馬場で、アラブに関しては日本一レベルが高かった)で重賞を2つ勝った牡馬・ミクニノホマレが出ました。そして、そのミクニノホマレを父に持つヒサカクイーンは重賞を6勝もし、アラブ歴代賞金女王となり、園田の女帝とまで呼ばれたのでした。女帝の父の母の母には史上最弱馬候補の名前が・・・。競馬はわからん。でもきっとサシカタの賢さと頑健さを受け継いでいたのでしょう。
(文中の年齢は当時の表記によります)




日の当たらない場所からやって来た幻のダービー馬<キタノダイオー>

 日の当たらない場所とはどういう意味か? 実はキタノダイオーという馬、サラブレッドではなくサラブレッド系(略してサラ系)なんですね。サラ系というのは、サラブレッドではあるが、8代前までに血統不明な箇所があったり、アラブが入っている馬を指し、純粋なサラブレッドとは区別されてます。昭和42年7月、函館の新馬戦を8馬身差のレコードタイムで圧勝、函館3歳ステークスは9馬身差のレコードでこれまた圧勝、札幌の北海道3歳ステークスも持ったままで3馬身半差の楽勝と快進撃を続け、当時札幌に在厩していた同期のタケシバオー(後の名馬)など、キタノダイオーの前にはほとんど話題にすらならなかったとか。もはや来年(昭和43年)のダービーはこの馬で決まりとまで言われましたが、好事魔多し。勇躍上京したものの、調教中に骨折し、クラシックを棒に振ってしまいました。この年のダービーはタニノハローモアが制しましたが、この馬が無事であれば・・・なんて事もささやかれたそうです。5歳時に復帰し、3戦していずれも楽勝しましたが、またも故障でリタイア。6歳時に再度復帰し、準オープンのダート戦を快勝し、幻のダービー馬をアピールしましたが、結局これを最後に7戦7勝で引退してしまいました。550kgを超す雄大な馬体も、故障がちだったことに少なからず影響していたのでしょうね。

 引退したキタノダイオーは、種牡馬になります。しかし、実はここからが大変。何故かというと、サラ系というのは繁殖馬としてはほとんど無視される存在。その能力の高さは知れていても、一流の牝馬への種付けなど、全くといってよいほど依頼がない。結局二流・三流の牝馬を相手に仕事をこなしていきます。でも、キタノダイオーはそんな中からコンスタントに走る馬を何頭も輩出し、その能力の高さをアピールし続けました。種牡馬としては成功した部類で、サラ系の種牡馬がこれほど成功した例は、国内では他にありません。
(文中の年齢は当時の表記によります)




底力の根源は凄まじい気の荒さ?<St. Simon>

 サンシモン(セントサイモン)は1881年英国生まれ。アスコットGCやグッドウッドCなどを含む9戦9勝というパーフェクトな成績を収めた名馬です。サンシモンは種牡馬としても成功し、9年連続リーディングサイヤーに輝いた他、後継のパーシモンからはプリンスローズ(カブラヤオーの祖先)が、チョーサーからはボワルセル(シンザンの祖先)が、ラブレーからはリボー(バンブーアトラスの祖先)が、それぞれ代を経て出現し、スタミナと類い希なる底力を伝える血統として知られています。ところで、若い頃のサンシモンはとてつもない暴れん坊だったそうです。こういう馬は、猫やウサギを厩に入れてやると大人しくなったりすることから、当時の管理者は猫を入れてやったのですが、サンシモンは何と、その猫の首を噛み銜え、壁に叩きつけるという傍若無人振り。いつも興奮していて汗をたらたらと流していたほど、無茶苦茶気の荒い馬だったと伝えられております。実は気性の激しさと底力は表裏一体。その気性をレースで負けん気の強さとして転化させることにより、抜群の勝負根性が備わるってわけ。まぁ、大半は気性が悪いだけの駄馬になってしまうんですが。プリンスローズ系、ボワルセル系、リボー系、いずれも当たり外れが大きく、突如として大物を出す血統ですが、激しい気性が災いして能力を発揮しきれない馬が多いみたいですね。ただし、母系に入ると非常にに優秀で、産駒に抜群の勝負根性を伝えます。直系は衰退気味で、母系に入ると良いというのも不思議な話ですが。




着差100馬身の伝説を持つ名馬<Man o'War>

 マンノウォーは1917年アメリカ生まれ。「軍艦」の名を持つ馬ですが、燃えるような栗毛から、ビッグレッドの愛称で親しまれ馬です。戦績は21戦20勝2着一回、勝つ時は常に圧勝という凄まじく強い馬だったそうです。唯一の負けがサンフォードメモリアルステークスで、その時の勝ち馬がアップセット(番狂わせ)というのだから笑っちゃいます。しかしウイザースステークスを勝ち、ヴェルモントステークスをぶっちぎり、ローレンス・リアリゼーションステークス(2頭立て)で、何と100馬身もの差をつけたという、ウソような伝説が残っています。これはまぁ、あくまでも伝説で、正確に計ったわけではないでしょうが、それほど強かったってことですね。その伝説の競走馬も種牡馬としては失敗で、後継馬もウォーレリックを出した程度でした。しかしそのウォーレリックがレリック、インテントとう2頭を出し、インテントの系統が細々と続いております。三冠馬・ウォーアドミラルを出し、全米リーディングに輝いたこともある馬に「失敗」は酷評かもしれませんが、当時から絶滅の危機にあったマッチェム系(ゴドルフィンバルブを始祖とする系統)再興の期待は、空振りに終わってしまったようですね。

 マンノウォーは、三冠レースを全てレコードタイムでぶっちぎった名馬・セクレタリアトを抑え、見事20世紀アメリカを代表する名馬第1位に選ばれました。20世紀初頭の伝説の名馬を、アメリカ人はこよなく愛しているんですね。政治的には決して好きになれない国ですが、アメリカ人のそういうところは好きですね。ちなみに2位となったセクレタリアトの愛称もビッグレッドでした。




無類の勝負根性で三冠達成<シンザン>
無冠の帝王<マルゼンスキー>

 20世紀の終わりに、日本中央競馬会(JRA)が「今世紀の名馬」投票なるものをやってましたが、私は投票する気にはなれなかったですね。どうせ最近の馬が上位を独占するに決まってますから(結果はその通り)。では私ならどの馬に入れるか?。シンザンかマルゼンスキーですね。

 シンザンは日本の競馬史上2頭目の三冠馬として有名ですが、この馬、コンピュータシミュレーションにかけると、多分勝てないでしょう。19戦15勝、2着4回、三冠の他、宝塚記念、天皇賞(秋)、有馬記念優勝という素晴らしい成績を収めたにもかかわらず、レコード勝ちどころか大差勝ちもなく、勝っても負けても常に僅差。スピード能力に重きを置いているシミュレーションでは、彼の真価は発揮できません。また、当時の馬場が今のように整備されていたら、彼はオープン馬にすらなっていなかったかもしれません。シンザンの強さの秘密は、類い希なる勝負根性を持っていたことに尽きると思います。並ばれても抜かせない、並んだら鼻一つでも先に出る。それこそがシンザンの真価でしょうね。だからこそダービー史上希に見るシンザン・ウメノチカラの名勝負が生まれたのでしょう。あっ、わ、私はリアルタイムで見てはいませんよ(汗)。で、そのシンザン、デビュー戦はウメノチカラと同じレースを使うつもりだったらしいのですが、ウメノチカラの調教を見た武田文吾調教師が、「強い。わざわざ負けるために一緒に走ることもない」と言い、予定を変更したとか。種牡馬としてのシンザンは、ロイヤルシンザン、ミナガワマンナ、ミホシンザンなどを出しましたが、現在では絶滅。サンシモンの系統は重い血統で、現在のスピード競馬には合わないのかもしれません。ただ、ブルードメア・サイヤーとしては優秀ではないかと思ってます。

 一方のマルゼンスキーはニジンスキーの持ち込み馬(母の体内に入って輸入された馬)で、当時は外国産馬扱いとされ、クラシックの出走権がありませんでした。だから無冠なのですね。主戦騎手の中野渡清一騎手が、「枠は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。馬の能力を確かめるだけでいい。ダービーに出走させてくれ」と訴えたのは、あまりにも有名な話です。結局大きなレースは朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティーステークス)しか勝っておらず、平場のオープン戦で憂さ晴らしをしていたという馬ですが、古馬を負かしていたのですからその強さは本物です。戦績は8戦8勝、8戦で付けた2着との着差は合計62馬身。朝日杯でたたき出した3歳レコードは、二度と破られないとまで言われてました(現在では更新されていますが、当時の馬場は今よりも2秒以上タイムがかかっていたと思われます)。この馬の走りを見た外国の関係者が、ニジンスキー最良の後継馬の一頭と評したのも、決してお世辞ではなかったでしょう。4歳の暮れ、最強といわれた彼が、いよいよ古馬の一線級と対戦すると期待された有馬記念。しかし彼は無念にもその直前、脚部に故障を発症し、そのまま引退してしまいました。種牡馬としての彼はホリスキー、スズカコバン、サクラチヨノオー、レオダーバンなどの一流馬を輩出しましたが、先天的な脚部の奇形さえなければ、もっと多くの名馬を出していたかもしれません。
(文中の年齢は当時の表記によります)




史上最強のブルードメア・サイヤー<Buckpasser>

 バックパサーは1963年アメリカ生まれの馬。裂蹄の持病があったためクラシックこそ出走できなかったのですが、アーリントンクラシック(1マイル)を1'32"6という当時の世界レコードで圧勝したほか、ジョッキーズクラブゴールドカップやウッドワードステークスなどの大レースを勝った名馬です。しかし、種牡馬としては期待はずれで、現在ではバックパサー→バッカルー→スペンドアバックと続くラインが細々とこの系統を維持している状況です。しかし、バックパサーの真価はブルードメア・サイヤー(母の父)として発揮されました。バックパサーを母の父に持つ馬は、ウッドマン、シーキングザゴールド、ミスワキ、スルーオゴールド、エルグランセニョールなど、そうそうたるメンバーが並んでいます。日本でもマルゼンスキー、ヤマニンスキー、ラシアンルーブル、トライマイベストなどがお馴染みで、特にマルゼンスキーは、脚部の不安(マルゼンスキーのほとんどの仔は、常に脚元の不安が付きまとった)さえなければ、ニジンスキーの最良の後継馬となっていただろうと言われてます。これらのうち、ウッドマン、シーキングザゴールド、ミスワキはミスタープロスペクターの仔で、マルゼンスキー、ヤマニンスキー、ラシアンルーブルはニジンスキーの仔。バックパサーの牝馬とミスタープロスペクター・ニジンスキーとは、強いニックス(特に相性のよい組み合わせのこと)が成立していたということでしょうね。

 話はそれますが、デリン-ドゥ系牝馬とサドラーズウエルズの配合も強いニックス関係にあり、この配合はヨーロッパにおける王道とも言えるでしょう。日本で莫大な賞金を稼いだテイエムオペラオー。その父オペラハウスはハイトップ(デリン-ドゥの仔)の牝馬とサドラーズウエルズという、まさにこの配合です。




日本一の馬主孝行<メジロアシガラ>

 日本を代表する牧場の一つ、メジロ牧場(すでに廃業しています)。完全なオーナーブリーダー(生産馬を売らず、自ら馬主となり賞金を収入源とする経営形態)として成功した、日本では数少ない牧場でした。そのメジロの最高の功労馬は?10億もの賞金を稼いだメジロマックイーン? 確かに彼は多大な功績を残した馬です。でも、忘れてはならないのがメジロアシガラという、今となってはほとんど知る人もいない障害馬です。

 メジロアシガラは昭和47年生まれで、父インディアナ、母の父ワラビーという、奥手のステイヤー血統。5歳まで平地で走り、成績は26戦2勝。普通はここらで見切りを付けて・・・となるところですが、血統からして距離が長く、ペースも速くならないレースならと考えたのか、障害に転向します。最初はなかなか勝てなかったのですが、6歳の2月、7戦目にして初勝利を挙げると軌道に乗り、300万下を2戦目で勝ち上がり、オープン戦も3戦目で勝ちました。しかしそんな折、牧場はとんでもない災害に見舞われました。昭和52年8月の有珠山噴火です。洞爺湖の近くにあるメジロ牧場は、牧草地に20cmもの火山灰が降り積もり、牧草地は壊滅状態。だが、当時はあまり余裕もなく、また、オーナーブリーダーという経営にも理解を得ることが難しく、融資を受けるのもままならない。さらにはこれといった活躍馬もいない時期であったため、牧場は大ピンチ。唯一、賞金の高い障害オープンで走れるメジロアシガラの活躍に、大きな期待がかかったらしいです。

 その期待に、彼は見事答えました。わずか半年の間に障害オープン競走(特別を含む)で9戦5勝。8000万円もの賞金を稼ぎ、牧場を支えたのです。結局その年いっぱいで引退し、重賞は一つも勝ってませんが、彼が稼いだ賞金がどれほど貴重なものであったか、それはこの馬のその後が物語っております。

 引退したメジロアシガラは、乗馬用として故郷に帰り、仔馬の追い運動の相手を務めました。しかし高齢となってそれもできなくなると、馬の養老院のような牧場に引き取られ、のんびりと余生を過ごします。でも、ここは現役時代大活躍した馬や、繁殖馬として優秀な成績を収めた馬が行くところ。重賞未勝利で繁殖にも上がっていない馬が行くなど異例中の異例。それほどまでに牧場は、メジロアシガラという馬を大切に扱ったのです。
(文中の年齢は当時の表記によります)




サラブレッドを驚愕させたアングロアラブの豪傑<セイユウ>
無類のタフネス<タマツバキ>

 今はもう廃止されましたが、かつては中央競馬でもアングロアラブの競走が行われておりました。その最高峰に位置していた競走が、札幌のセイユウ記念と函館のタマツバキ記念です。ではその競走名の由来となった2頭はどんな馬だったのか?

 セイユウは昭和29年生まれのアングロアラブ。母の母が純血のアラブで、母の父はサラブレッド、父は後にリーディングサイヤーとなったライジングフレーム(これもサラブレッド)という血統構成で、アラブ血量25.00%。ちなみにアングロアラブとはサラブレッドとアラブの混血で、アラブ血量25.00%以上の馬を指します。一般にアラブ種はサラブレッドよりも少し小柄で、スピードはサラブレッドに比べ劣りますが、力があり、持久力に優れ、タフでもあります。それ故軍馬として利用価値が高いことから、戦前〜戦後しばらくの間はサラブレッドよりもはるかに多く生産されておりました。

 さてそのセイユウですが、アングロアラブの競走では25戦21勝。もはやアラブには敵なしと見るや、サラブレッドに挑戦します。その結果は24戦5勝という成績ですが、七夕賞、福島記念、セントライト記念という3つの重賞(当時から重賞だったのはセントライト記念だけだったかな?)を勝ってます。後にも先にもサラブレッドの重賞を制したアングロアラブはこの馬だけ。ちなみに七夕賞は5頭立て、福島記念は3頭立てです。何だ、たった5頭とか3頭のレースで勝っても自慢にならないじゃん・・・って考えた方、甘いです。何故こんな頭数になったのか。セイユウは強い。うちの馬あたりでは負けてしまうかも。でも、サラブレッドがアラブに負けたら格好が付かない。そんなわけで出走回避が続出し、七夕賞は5頭立てとなり、そして七夕賞でセイユウが勝ったため、福島記念はさらに出走回避が続出し、3頭になってしまったというのが実際のところです。既に戦わずして勝っていたんですね。

 そしていよいよセントライト記念(昭和32年)。このレースは菊花賞への重要なステップレースですから、いくらセイユウが怖いからと言って、回避するわけにもいきません。菊花賞を目指す強者達が集まるレースです。そのセントライト記念では、スピードが殺される荒れた馬場も味方したのでしょうが、ラプソデーをねじ伏せて、見事勝利の栄冠に輝きます。セイユウの2着に甘んじたラプソデーは・・・中央競馬会の記録を調べて下さい。昭和32年・第18回菊花賞の優勝馬です。つまりセイユウは、後の菊花賞馬をねじ伏せたのです。これは凄いことですね。

 セイユウはその後種牡馬となり、アラブの名馬を多数輩出しましたが、圧巻なのはその性豪振り。年間種付け回数238回、生涯種付け回数2599回。これはいずれも当時の日本記録です(現在の記録はタガミホマレの持つ年間270回、生涯2909回)。そのすごさからいつしか「性雄」と呼ばれるようになりますが、一方ではあまりに頭数が多いため、禁止されている体外受精を行っているのではないかという噂が立ち、ついには農林省から役人が監視に来るという事態にまで発展したとか。でもセイユウはその監視官の前で涼しい顔して「仕事」をこなしたため、すぐに疑いは晴れたようでした。

 一方のタマツバキは、実は私もよく知りません。デビューが昭和23年ですから、セイユウよりも年上。成績は75戦35勝で、かなりの成績ですが、歴代最高というわけではありません。この馬が名を残したのは勝ち馬の最高負担重量記録を持っているということ。アラブの競走は勝てば勝つほど負担重量が重くなりますが、勝ち星を重ねていったタマツバキは7歳(当時の年齢表記による)時、ついに83kgという酷量を背負わされ、なおかつそれを背負いながら4連闘し、ついには勝ってしまいました。この83kgという負担重量が、日本の競馬における勝ち馬の最高負担重量です。83kgは1回だけだったようですが、80kg以上での勝ち鞍は計5つ。単純に考えれば中年太りのおじさんが乗っても勝ったということになりますね。引退後は種牡馬になったそうですが、大活躍するような馬は出せなかったということです。